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Hubert Sumlin Interview 2

――どんなふうに音楽を始めたのですか。  初めてのギターを手にしたのが8歳の時だ。俺の兄貴はすでに、壁に一本弦を張っていた(diddley-bow)がね。その弦と、瓶でもってスライドをしていたんだ。瓶を滑らせることでキーを変えていたんだね。おれはそれを見ていて、「そうだ! こいつをもっとよくできるぞ」って言って、もう一本弦を張ってやったんだ。利口な奴だっていわれたよ。彼はその弦と格闘しはじめた。おれは、「俺も練習して、二本とも弾けるようになるぞ」って自分にいったわけだ。兄貴はさらに弦を増やして、五本になったけど、六本弦にはまだならなかった! それで母さんが町に行って、俺たち二人ともギターをやることになるってわかったんだ。母には兄貴がうまくならないってわかってたみたいでね、兄貴は俺が一本目の弦を切っちまったんで怒っていて。それで、母は俺にギターを買ってくれたんだ。一週間分の給料だったよ。彼女はうちの田舎から4マイル離れた葬儀屋で働いていて、週8ドル稼いでいた。だもんで、来週は何を食ったらいいんだかってことになったんだけど、まあなんとかなった。そのギターは12年くらいちゃんと持っていたよ。弾けないくらい状態が悪くなるまでは。あのころのギターってのは、今のよりいい音がするのがあったように思うね。嘘じゃないよ。 ――どこで育ちましたか?  Mississsipi。Greenwoodで生まれて、Arkansasで育った。8歳の時にMississippiを出たし、ギターも手に入れてたわけだ。引っ越してある日学校に行ったら、James Cottonに出会った。それで友達になった。あいつが音楽を始めようとがんばりだした時、おれはすでにやってた。俺もあいつも、俺って大した奴だって思ってたね! あいつはハープで何もできなかったけどがんばってた。最終的に吹けるようになったんだ。やつはミュージシャンをみんな知ってて、例えばBobby ”Blue”BlandとやってたPat Hareだとか。やつが出向いてPatと、ピアノ弾きと、ドラマーと知り合って、俺たちは金曜の夜に一緒にhonky-tonkをやるようになった。土曜の夜と日曜はみんな休まなきゃいけなかった、仕事に戻らなきゃいけないわけだからな。俺たちがやってると時々客がケンカを始めることがあって、そういう時は出て行ったんだ。連中は1セントと...

Daddy Rabbit interview

――あなたの名前を教えていただけますか。フルネームで。 フルネームかい? Coleman Jr. Pettis。 ――P-E-T-T-I-S? そう。 ――なんと呼ばれていますか? 連中にはDaddy Rabbitと呼ばれているよ。 ――Daddy Rabbit。OK。グループ名も教えてください。 Magic Slim & The Teardrops。 ――あなたはリード・ギターを弾くのですか? あー、リードも弾くけど、ほとんどはコードだね。リズム・ギター。 ――何年演奏してきましたか? 25年やってきたよ。 ――おお~。シカゴには何年いますか? シカゴにはもう22年いる。 ――もともとはどこの生まれで? AlabamaのMontgomeryだね。 ……シカゴに来たときはベースで始めたんだ。Little Walterのバンドで。 ――おお、本当に? うん。時々呼ばれてJimmy Reedの後ろでも弾いたし……まあ、Chicagoのすごいバンドとは大体やってきたよ。 ――なるほど。どうやってギターを覚えたのですか? 最初の時はね、母が教えてくれたんだ。母もギターを弾いたから。 ――ええ、本当に? お母さんもブルースを弾いたんでしょう? ああ、そうだね、うーん、あの頃そんなギターも弾いたけど……電気ギターはなかったからね。大きなホロウの……「箱」ギターでね。そう。 で……当時母が、いくつかコードを見せてくれたりとか、そのくらいだったけどね。本当にのめりこんだのはね、バンドをやったりとか……そのときAlabamaで働いてたから……Alabamaの学校(バンド名かも)で、教会で演奏して楽しませるような仕事をもらったんだよね。 当時バンドに3人いて、俺たちは教会のパーティで25セントもらってやったりとか(?)……楽しかったけど、Chicagoに来てからだな、本当に音楽をやり始めたのは。 At Josephine's Lounge, Chicago, Illinois, part 1; music by Magic Slim and the Teardrops, interview with Daddy Rabbit (Coleman Pettis Jr.) | Library of Congress

Billy Boy Arnold-Harmonica Masterclass(途中まで)

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  俺の名前はBilly Boy Arnold……つまりブルースしか歌わない、って意味だ。これからブルースハーモニカについて話そうと思う。はじまりから今日に至るまでの歴史をね。  ブルースのはじまりにおいて使われた楽器っていうのはふたつしかなかった。一番にピアノ。そしてギターがやってきた。その時はエレクトリックじゃなくてアコースティックギターだ。ギター弾きもハウス・パーティにやってきては演奏するようになった。そう、その頃のブルースには二つの中心的な楽器があって、ピアノが一番、ギターが二番だった。  ハーモニカが目立つようになるのは一九三七年のこと……John Lee Williamson、Sonny Boy Williamson、つまりオリジナル・Sonny Boyが"Good Morning Little Schoolgirl"をRCAのBluebirdレーベルで録音したときだ。これが、ハーモニカが歴史を作った地点だね。  "Good Morning Little Schoolgirl"はスマッシュ・ヒットだった。アメリカ中でうけたんだ。じっさい、Big Joe Williamsが言うにはSonny Boyは当時のブルース・シンガーの全員の録音に参加してたって話だ。"Good Morning Little Schoolgirl"を作った時に、彼はその頃の全員を超えちゃったんだな。  "Good Morning Little Schoolgirl"がどれだけ人気だったかっていうと、Muddy Watersもハーモニカをやろうとしたし、Jimmy Rogersも、Eddie Boydもハーモニカを吹こうとしたんだ。そのくらい彼は特別でオリジナルだったから、みんなそれに乗っかろうとしたんだ。これが当時起きたことだよ。  そしてほかにも、二人の素晴らしいハーモニカ・プレイヤーがいた。当時はレコードには登場しなかった人たちだ。一人はRice Miller……Sonny Boy No.2と、もう一人はBig Walter……Walter Hortonだ。たしかBig Walterがレコードを作ったのは1938年のことだな。おれがそのレコードを聴いたとき、誰だかは知らなかったが、ふつうのハーモニカ吹...

John Lee Hooker Interview

 John Lee Hookerインタビュー ーーあなたは反抗的な子供でしたか?  いや。おれはずっとクリスチャンだ。日曜の学校でそうやって育てられたからな。信じないかもしれんが俺は生まれてこのかた喧嘩をしたことがないし、トラブルに巻き込まれたこともない。暴力沙汰にもね。けして。戦いのことを信じてないんだよ。俺はloverで、fighterじゃないんだ。良くない奴がいたら縁を切るだけ。なるべくトラブルからは離れて生きてるんだよ。巻き込もうとしてくる奴らもいたけど、そうはさせなかったよ。俺は聖人君子だったことはないけど、ずっといい人間なんだ。人をたくさん助けるしな。 ーー他人のソロを一音一音練習するようなことはありましたか?  たまにはな。そんなにはやらない。俺は自分のスタイルが好きなんだ。いつも独学でやってきた。俺は他人をコピーするような人間じゃないんだ。俺はJohn Lee Hookerでありたい。 ーーエレキギターを弾く人を初めて見たのはいつか覚えていますか?  うーん。T-Bone Walkerだな。あの人は俺の憧れだった。彼が俺の最初のエレキギターをくれたんだ。エピフォンだった。 ーー彼のすごいところは何でしょう?  彼はすごくうまかったんだ。独特のスタイルでエレキギターを弾いてね。いい人だったよ。どこへ行くにも好んで俺を連れて行ってくれた。俺のことを「The Kid」って呼んでたね。デトロイトでのことさ。 Jas Obrecht Interview

Ike Turner Interview(未完)

俺が始めたころはな、あー、B.B.はわかるだろう。あいつが教えてくれたんだ。B.B.King。一緒に育ってきたからね。それからあいつは家を飛び出してメンフィスに行った。あとでそっちに行ったときに再会したよ。ミシシッピのチャンバーズでプレイしてたところでね。それからやつがSun Studioに紹介してくれたんだ。 ――あなたが共に育った音楽について少し聞かせてください。ミシシッピのクラークスデイルにいたころ、どんなものを聴いていたのですか? Sonny Boy Williams(ママ)と、あー…… ――子供のころに聴いていた音楽について、改めて伺ってもいいですか?  ガキの頃に聴いてたのは、Sonny Boy Williamsと、Pinetop Perkinsだ。彼のプレイに一番影響を受けたね。彼がピアノを弾くのを窓越しに見たもんだ。人間の指があんなに速く動くなんて信じられなかった。そういうわけで、おれはピアノに興味を持った。そしてついに、Pinetopが窓越しに俺を見つけて、入れてくれたんだ。でも、ガキが遠慮して、ドアから入るんだか入らないんだか、ってうろうろしてる感じってあるだろ。それで最終的に、Pinetopが左手はどう弾いてるかってのを見せてくれたんだ。まったく俺は彼のピアノにほれ込んでたからね。まあ、とにかく、そうやって見せてくれるようになったわけだ。  それから、あー、何週間かあと、あー、たしかそのころ、PinetopとSonny Boy Williamsonはアーカンソーのヘレナで番組を持ってたと思うんだけど。局の周波数は忘れちまったが……とにかく、おれたちはそのころRobert Nighthawkに会ったんだ。あー、彼もSonny Boy Williamsみたいに大会に出てたからね。ま、とにかく、Robert Nighthawk、はクラークスデイルのWROXラジオ局で番組を持ってたから、おれたちはアンプとギターを運んだりするのを手伝ってたんだ。音楽を近くで聞くだけのためにさ。わかるだろ。それで、あー、おれが音楽に本当に関心を持ったのはこういういきさつだ。 ――そのことのラジオについてすこし聞かせてください。五〇年代はじめ、あなたがWROXで番組を持っていたころ、白人の局と黒人の局はそれぞれ何を流していたんですか? はっきり分かれていましたか?  分かれ...

Brewer Phillips Interview(断片)

 前にBrewer Phillipsの8ページくらいのインタビューを読んだ時の覚書。 Brewerの父は郡の高官のもとで働いていて、その高官は労働者の黒人が食べるに充分なくらいの給料は与えていたらしい。「みんな貧乏でなにもない黒人って話をするけど、俺の話わかるか?」 Brewerの父は一時期はかなり稼いでいて、自分の車やラバを持っていたくらいだった。しかしフーヴァーが大統領になって、どんどん貧しくなり、土地も車もなくなって一頭の牛しかいなくなってしまう。 Brewerは1924年11月16日に生まれる。12人兄弟の末っ子として生まれた彼の面倒は(母がそのころできなくなっていたので)一番上の姉が見た。 Brewerの祖父、Aleck Griffinは1850年代生まれで、まさに奴隷売買を経験した世代。彼はなんと90歳まで生きて、Brewerにその時の話をよくした。 父方の祖父、Everett Phillipsはプエルトリコ人。Brewerには1/4プエルトリカンの血が流れている。 彼に最初に音楽を伝えたのは母親で、よく歌っていた。その後ろでBrewerも壁に針金を張ってdiddley-bowを演奏?して遊んでいた。 Brewerの従兄弟の奥さんは同性愛者で、彼の見るところお金が欲しくてその従兄弟と結婚した。(従兄弟は軍にいて、お金を送っていた)彼女からBrewerの姉にギターが贈られた。それがおそらくBrewerが触れた最初のギター。といっても彼の家にはラジオも電気もない(彼の父は家族に自分の育ったような環境で暮らすように強いていたので)ため、どうやって弾くのかまったくわからなかった。 とはいえBrewerは2ヶ月くらいでギターを弾けるようになり、母親の歌ならなんでも合わせられるようになる。曲目はよく知らないけど、ブルースというよりはゴスペルの曲かしらん。Brewerの母は9年間教育を受けていたので、歌えたし、一曲自分で作ってすらいた。ブルースも歌っていたみたい?あと、チャールストンなんかのダンスも教えてくれたらしい。Brewerの最初の先生は母親だったわけだ。 じきに姉たちとBrewerは一緒に歌うようになる。父はみんなに歌わせるのが好きだったがなぜかギターを弾かせてくれなかった。母が説得して弾かせてくれるようになる。父親が唯一ギターを弾けというのは、客が来...

Dave Myers Interview(未完)

おれはミシシッピのバイハリア(Byhalia)の生まれだ。(1926年10月30日)おやじのAmosはギタープレイヤーだった。おふくろのMaryもちょっとはやったけど、うちの周りで演奏したくらいだったね。おやじはそのへんの家のパーティなんかに行っては演奏してた。そういうのを当時「フロリック(どんちゃん騒ぎ)」といったんだ。  おやじはオールドなツー・ステップ・タイプの音楽をやっていた。そういう音楽のことを「ロンプ」と呼んでいたよ。おやじはBlind Lemon Jeffersonとか、Big Bill Broonzyとか、Lonnie Johnsonみたいな感じでプレイしていた。ヴェスタポル(オープンD系)チューニングにしてね。おれたちはいつもおやじが演奏するのをすわって熱心に見ていたんだ。でもギターは持ってなかった。そうでなきゃおやじと一緒にできたのに。でも持ってないもんだから、おやじのやるのをひたすら見て、ギターが置かれたらおれたちがつかみにいくって調子だった。ギターで遊んでるとよくケツを叩かれたもんで、もしそのたびに金が降ってきてたら今頃演奏の心配することもねえだろうな。(笑)  弟とおれはいつも教会で歌ってたんだ。バプティスト教会で何人かと。大合唱団って風情ではなかったね。あんまりそれで影響を受けたとは言えないね。でも、その辺にはちょっとはプレイできる奴らがいて、The Sesserly Brothersなんかはシカゴのストリートでやってるような音楽もやれた。まあ、でも、ガキがうろついてるだけみたいな感じだったね。おれはカントリーをいつも聞いてたんだ。土曜の夜にね。The Grand Ole Opryって局にはBill Monroe、Roy Acuff、Eddy Arnold,Grandpa Jones、Minnie Pearlみたいな連中がたくさんいたんだ。なにぶんラジオしかなかったから、そういうのにインスピレーションを受けるしかなかったわけだな。おれはスウィングもそれはよく聴いてたけど、それがメインって感じじゃなかった。俺はほとんどいつも、おやじが演奏するのを聴いてたんだ。  俺たちは1942年にシカゴに来た。おやじが白人に追い出されたからな。地元にはおやじのおやじから継いだちっちゃい土地があって、それでまあなんとかやってたんだけど、あのトラクターっての...

Phil Guy-"It's A Feeling"

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https://youtu.be/5CbukRgbszA?si=noPxATEFbwqhOTk2  …腰まげて綿を摘まなきゃならない。膝をついて摘むやつもいたけど。おやじにはよく怒られたよ、日に百ポンドの綿を摘めなかったからね。やろうとはしたけどできなかったんだよ。向いてないからほかのことをやろうと思ったんだ、小作人(シェアクロッパー)になるつもりもなかったし。で、ギターにはまっていったんだ。  (Ain't That Loving You/Jimmy Reed)  …俺がギターを始めたのはLouisianaのLexwoodにいたころだね。小さい田舎町だ。おれといとこでよくLevy(?)に飛び入りさせてもらった。あいつは当時はハーモニカを吹いてたけど今はギターだ。当時はエレクトリックギターを持ってなかったから欲しくてね、このピックアップが付いたやつが。で執着してたわけだ、アンプにつなぐとすごくいい音がして……これまで聴いた中で一番いい音がね。まあなにしろそれしか聞いたことがなかったから。それから初めてのグループに入って……〇〇の。あいつはハーモニカ吹きでひとつは口で、もうひとつを鼻で吹くんだ。ほんとだぜ(笑)それで夕方の四時とか四時半になると俺たちはこんな感じのを演奏してたんだ。  ……Yeah,今夜はBig Papaがこの町に来たぜ、これから俺たちはRockhouseをロックするぜ。…これはよくやってたクラブの名前だよ。毎週金曜土曜日曜にね。野球の試合の後はみんなで集まるのさ。騒いで、ブギーしてね。Hound Dogもこんな感じでやってたもんだよ。…ハハハ、こんな感じで楽しくやってたんだ。ギターを覚えながら、いとこと一緒にやったり、ときどきは坐って、何がどう変化していくかとかを見て…おやじにもBuddyとおれがやるところを観てほしかったけどね。おやじが俺たちの演奏を観ることはなかったんだ。    ……これは夜通し出歩いても明日食べるものも手に入らなかったようなときの歌さ。  (Garbage Man Blues/Phil Guy)  ひとは勘違いしてることがあるね。ブルースは誰かが誰かの嫁さんを撃ったりするようなもんだと思ってるやつがいるけどそんなんじゃないんだよな。それは違ってて、それは昔から語り継がれてきたストーリーなんだよ。そんな風な問題にぶつかった...

Billy Boy Arnold-"Harmonica Masterclass"

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https://youtu.be/BzTCEbI0amI?si=cwT_V2jPu4FlSJIG  俺の名前はBilly Boy Arnold……つまりブルースしか歌わない、って意味だ。これからブルースハーモニカについて話そうと思う。はじまりから今日に至るまでの歴史をね。  ブルースのはじまりにおいて使われた楽器っていうのはふたつしかなかった。一番にピアノ。そしてギターがやってきた。その時はエレクトリックじゃなくてアコースティックギターだ。ギター弾きもハウス・パーティにやってきては演奏するようになった。そう、その頃のブルースには二つの中心的な楽器があって、ピアノが一番、ギターが二番だった。  ハーモニカが目立つようになるのは一九三七年のこと……John Lee Williamson、Sonny Boy Williamson、つまりオリジナル・Sonny Boyが"Good Morning Little Schoolgirl"をRCAのBluebirdレーベルで録音したときだ。これが、ハーモニカが歴史を作った地点だね。  "Good Morning Little Schoolgirl"はスマッシュ・ヒットだった。アメリカ中でうけたんだ。じっさい、Big Joe Williamsが言うにはSonny Boyは当時のブルース・シンガーの全員の録音に参加してたって話だ。"Good Morning Little Schoolgirl"を作った時に、彼はその頃の全員を超えちゃったんだな。  "Good Morning Little Schoolgirl"がどれだけ人気だったかっていうと、Muddy Watersもハーモニカをやろうとしたし、Jimmy Rogersも、Eddie Boydもハーモニカを吹こうとしたんだ。そのくらい彼は特別でオリジナルだったから、みんなそれに乗っかろうとしたんだ。これが当時起きたことだよ。  そしてほかにも、二人の素晴らしいハーモニカ・プレイヤーがいた。当時はレコードには登場しなかった人たちだ。一人はRice Miller……Sonny Boy No.2と、もう一人はBig Walter……Walter Hortonだ。たしかBig Walterがレコードを作ったのは1...

翻訳:Alabama Jr. Pettis(Daddy Rabbit) バイオグラフィ

生:一九三五年 没:一九八八年 四月 熱心なブルースファンなら、Alabama Jr.(Daddy Rabbit) Pettisの名はMagic Slim & The Teardropsに七三年から八三年の十年にわたって在籍したメンバーとして記憶しているだろう。Alabama Jr.はTeardropsのかすがいとして、Magic Slimのドライヴするギターと、Nick Holtの脈動するベースを、ていねいなバッキングでつなぎとめていた。Coleman Pettis Jr.(彼の本名である)は三〇年代半ばにアラバマで生まれた。八歳のとき母にギターを教えられ、子供時代は練習したりしなかったりする日々がつづいたという。手頃なギターがなかったとき、かれは長い棒に荷造り紐の両端を結びつけて、とにかく音を鳴らしていた。十代になる頃には、フィッシュ・フライの店で演奏するようになった。最初はソロで、それからもう一人のギタリストを加えてデュオで演奏し始めた。一晩で合わせて五ドルの稼ぎだった。一九五二年、彼はシカゴに移住した。そこで彼は最終的に「シカゴ・ブルース」の基礎を作り上げる、数々の素晴らしいミュージシャンと出会い、共に演奏するようになった。シカゴに到着したとき、Alabama Jr.は熱心にクラブに通った。もっとも熱いブルースが演奏される場所を見つけたらすぐに赴き、ただ聴くために。一九五六年まで、彼はLittle Walterのバックでベースを弾いていた。サウスサイドのたくさんのクラブで。そしてジョリエットでも一、二軒演奏する場所があった。Jr.が行っていたクラブの一つにTurner’s Loungeがある。彼がLee Jackson、Big Walter Horton、J.B. Hutto、Hayes Wareなどとともに演奏したところだ。Lee JacksonはJr.の大きな影響源となった。彼を励まして、ギターを続けさせたからだ。Little Walterのベーシストとしての期間を終え、彼はLee Jacksonのバンドで三年間リズム・ギターを弾いた。Tony's Blue Loungeという小さなクラブで。彼のおかげで、一九七三年には、Jr.は確かなギターの経験を積むことができていた。J.B. HuttoのDelmarkでの最初のレコーディング、「Ha...

翻訳:Fred Thomas インタビュー

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 プロのミュージシャンになるなんて考えてもみなかった。ベースが何かも知らなかったんだ。 あるときおれたちはハーレムの大きなクラブで演ってたんだ。するとJames Brownがやってきて、「おい、"Sex Machine"はできるか?」と言ってきた。そしてステージに上がってきて、「Can I cut it off? 1,2,3,4! Get Up....」とやりだしたわけだ。バッチリ決まったよ。それでマネージャーを呼んできて、バンドの全員を雇ったんだ。 Sex Machineのベースラインを弾いてみせてくれませんか? (演奏)これだろう? これはみんなに言ってるんだけどな……James Brownバンドに関していや、あのフレーズを正確に弾けるかどうかは必ずしも問題じゃなかったんだ。彼が欲しかったのはグルーヴで、それだけさ。グルーヴがすべて。おい、あんたもベースをやるだろう? あんたのやる曲を、あんたのラインで。StevenならStevenのラインを弾いてればいいんだよ。 あなたはJames Brownのバンドに向いた性格だったようですね。 ノー。違うよ。性格がどうとかじゃない。問題はミュージシャンとしての能力だよ。James Brownは誰になら何をやらせられるかっていうのをよくわかっていたからね。 James Brownはメンバーから罰金を取ったそうですね。どういったときに取られるのでしょうか? というのは、あなたたちはタイトなバンドだったわけですから。 ある時に50ドル取られたことがあるよ。次の音を弾くまでに一秒遅れたという理由で。ひどいもんだぜ。「おい、最悪だぞ! おまえは50ドル罰金だ」って言われてね。それでおれは50ドル出して、JBはそいつを持っていった。 そのときはどうして50ドルだったのですか? 他だと20ドルだったと思いますが。 ああ、その時はな、最前列にQuincy Jonesが座ってたんだ。 ああ……(笑) 「最前列の真ん中にQuincy Jonesが座ってんだぞ! 文句言ってもダメだ。50ドルだぞ」ってさ。(笑)まあ、クールだったよ。 音楽に集中して、それぞれの楽器にスペースを作ってやらなきゃならん。たとえばSex Machineだ。ギターが(口真似して)こう弾いてて、ベースはこんな感じで、ドラムはboom, ts bopって...

Magic Slim Interview

このショートインタビューに応じてくださってありがとうございます。ミシシッピで育ったなかで、最初の音楽に関する記憶は何でしょうか? ピアノ。 あなたは音楽一家の中で育ったのですか? いや。俺のママが唯一演奏を始めただけだな。 いつもミュージシャンになりたいと思っていましたか? うーん。田舎で小作人をやってると、自分が何になりたいかなんてわかんないもんだよ。 あなたはピアノから音楽を始めたと話してくださいました。しかしギターに切り替えたのですね? 十四の時に手を怪我して小指がなくなっちゃったから、ピアノが弾けなくなって、ギターに替えたんだ。 音楽を始めたころは何を弾いていましたか? ブルーグラス、カントリー&ウェスタン。 なにがブルースに宗旨替えさせたのでしょうか? John Lee Hookerの「Boogie Chillun」を聴いてからブルースに転向したんだ。 そして、戻らなかった! ああ~。そのまま行ったよ。 Magic Slimという芸名の由来は? Magic Samがくれたんだ。むかし俺はスリムで背が高くて、腹もどこも出ちゃいなかったからね。 素晴らしい!しばらく彼のバンドにいたんですか。 そうだ。あいつが死ぬ前に、「その名前でいけ、そしたら有名になるから」と言ってくれてね。 実際そうなりましたね。 ふむ……頑張ってやってるよ! 作曲や演奏において一番影響を受けたのは誰ですか? そうだなあ、おれはみんなみんな聴いてきたけど、誰っていうのはないんだ。誰のようにも弾きたくなかったからね。おれはおれのサウンドを作らなきゃいけなかったからさ。どういうスタイルに行くかってことのために聴きはしたけどね。でもおれは誰のようにも弾きたくなかったし、だれも俺のように弾こうともしなかった。俺の今があるのはそういうわけさ。 そうして自分のギタースタイルを作ったのですね。どうやってスライドのサウンドを得ているのか教えてください。ほかの誰とも違うスタイルだと思います。 ああ、俺は指をスライドさせるんだ。ガラスだのなんだのは使わないね。 膨大なレパートリーがありますよね。なにか特別な思い入れがある曲はありますか? 全部、全部さ。 WC Handy賞のベスト・ブルース・バンド部門を六回受賞していますね。あなたにとって特別なことでしたか? ああ。スペシャルなことだね。 The Teardr...

Hubert Sumlin インタビュー

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Howlin' Wolfにはこう弾けと言われていましたか? いや。初めて会ったときには、俺は彼の音楽をやる準備がまだできてないって言われたんだ。それで一日、一週間、ひと月、一年、とにかく時間がかかるだけかけて考えた。「準備が出来たら戻ってこい。おれの曲のやり方がわかったら雇ってやる」と言ってたっけ。だから家で弾いたり(原文pray。祈った?)、ギターを枕の下に入れて寝たりしてなにかわかるまでがんばったんだ。だってWolfはマジだからさ。Wolfはウソは言わないんだ。 俺は八年か九年ぐらいはピックで弾いてたんだけど全然ものになんなくてね。でもある朝起きて、ピックなしで弾いてみた。初めに弾いたのは「Smokestack Lightnin'」だったかな。そしたらだんぜんよくなって、もうピックはいらないってわかったんだ。指がありゃ十分だってね。 ピックを捨てたらすべてがしっくり来たのですね。 そうさ。もっともっとソウルを込めてやれるようになった。もうピックは使わなかった。これが俺のカギだったわけだ。おれのトーン、おれのサウンドは、全部その時から始まった。みんな俺がどうやってるかわからないね。ふつうのギタリストにはやり方がわかんないんだろう。これは神様が俺にくれたもんだ。ピックはいらないよ。五本指があるんだから。一枚が五本に勝てるわけないだろ? あなたのスタイルとして、コードを沢山は弾かないことが挙げられると思います。 そうだね。トリックはたくさんやるけど。Muddy Watersが前に言ってた通りだよ。俺は袖の下にたくさんギミックをそろえてる。そしてどこで入ってどこで抜けたらいいかわかってるって。沢山のギタリストがそのへんをわかってないね。俺はどこでどう入れてやればいいかわかってる。そこがすべてだよ。 あなたのトレードマークの多くはHowlin' Wolfと長い間プレイしたことから来たものですか? イエスでありノー。俺は半年Muddy Watersとやったことがあるけど、Lord!Jimmy Rogersからはほんと多くを教わったよ。おれは一緒に仕事したギタリスト全員から何かしら盗むんだ。あっちでこの音、こっちでこの音。こいつからリックを盗んだら、あいつから別のリックをってぐあいさ。それを全部合わせるんだよ。そしたらHubert Sumlinスタイル...

翻訳:Fred Below インタビュー2

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ジャズのバックグラウンドとして、だれを聴いてきたのですか? あー、聴いてきたわけではないよ。私はなんとGene Ammonsと学校に行っていたんだ。それに、なんとBennie Greenともね。実はね、私が初めて組んだバンドにBennie Greenがいたんだ。 Johnny Griffinも。彼と私は同じクラス、同じ教室の、隣同士だったんだ。 私は軍隊に入って、一九五〇年に帰ってきた。ドイツで任期を終えたからね。音楽シーンに戻ってみると、Johnny Griffinや、Buddy Rich、Louis Bellsonとかのキャッツはみんなどこかに行ってしまっていたんだ! だから、私がシーンに戻らなければならなかったのさ。 シカゴに帰ったけど、Gene Ammonsとかのミュージシャン連中はみんなシカゴからいなくなっていた。みんな白人のビッグバンドに入っていて、彼らと連絡を取る方法もなかった。 それで、私はシカゴでElgin Evansってドラマーと出会った。Muddy Watersとやっていた人だ。それで彼が自分とやっていた連中を紹介してくれたんだ。 彼を介して、わたしはMemphis Slim、T-Bone Walker、そういう人たちと出会った。当時、Muddyがプレイするような音楽については全然わからなかった。でも、そのころブルースが街ではやっていたからわかりたくてね。それで、周りのやってるやつを見て、どうやってるのか勉強したのさ。 でも、それなりに苦労したよ。そのうちどうにか自分のやり方を見つけて、ほかのブルースの連中についていけるようになったけどね。 だから、私のスタイルはハープについてよく勉強したスタイルなんだよ。皆ドラマーを欲しがってたからね。わたしはLittle Walter――ベストのうちの一人――と演奏していたから、他の人とは一味違ってたんだ。なぜなら私はジャズミュージシャン出身として、ブルースを解釈してやっていたからね。違うやり方でビートを作り上げたんだ。 ええ、あなたのスタイルは素晴らしいものです。あなたの演奏をずっと聴いてきました。 それにDinah Washington、Big Bill Broonzy、Memphis Slimともやったよ。おっと、それにThe Moonglowsともね。「Sincerely」ってレコードを知ってる? ...

翻訳:Clifton James インタビュー

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おれはいろんなやつと仕事をした。Wolf、Muddy Waters、Jimmy Reed,Jr.……まあ、知ってるだろ。 Bo Diddleyのドラマーだったんですよね? ああ。俺はあいつのオリジナル・ドラマーだよ。一緒に始めたんだ。あいつにあのビートをやったのはおれさ。 Willie Dixonがそうだといっていました。どのようにあのビートを作ったのですか? わからん。ただ降ってきたのさ。俺があいつとやり出す前、俺は家でなんかを叩いてたんだ。それだけでね。Boに会って、俺たちはシカゴのクラブなんかでやりだすようになった。あちこちで、ちょっともらえるか、なにももらえないかぐらいだったが。実際問題、あんなのはないようなもんだったよ!はした金だった。 Willie Dixonが、あなたはメロディックなサウンドを得るために、チューニングにこだわると言っていました。 そうだね。 ハイハットは使わないと聞きましたが? そうだ。たまには使うけどね。 しかし、そのころあのタム・タムのスタイルは他にいなかったと思います。あなたのアイデアですか? うん、「Bo Diddley」とか「Pretty Thing」なんかは典型的だが、相当たくさんの曲であれをやったね。あとから、Dee Clarkの「Hey,Little Girl in the High School Sweater」でもやった。 Howlin’Wolfの「Killing Floor」もあなたですよね? ああ。Sonny Boy Williamsonともたくさんやったよ。McKinley Mitchell、L.C. McKinley、Buddy Guyに、Little Walterともな。 Frank KirklandがBo Diddleyのほとんどのレコードのクレジットで入っています。彼の役割は? ツアー用のドラマーだったのではないのですか? いや。俺が最初だ。それからやめた。Boのもとを去ったのはうまくいってなかったからだ。それでもあいつは俺をいつも呼び戻そうとしてたけどな。でもうまくいかなかった。 しかし、あれはFrank Kirklandのビートではないのですね? 違うよ。 あなたに影響を与えたドラマーは誰ですか? そのころにかい?ええと、Max Roach,Gene Krupa,それにCozy Cole。 彼らがあ...

John Littlejohn インタビュー

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あなたのバックグラウンドについて少し教えてください。どこから来たのか、というところから始めましょう。誕生日はいつですか? 一九三一年の四月十六日。 生まれは…… ミシシッピのジャクソンだ。 両親が音楽をやっていたか、覚えていますか? うーん、家族は誰もやっていなかったね。 演奏したいと思うきっかけになった出来事は覚えていますか。 覚えてるよ。フィッシュ・フライを食べに行ったときに――電灯がなくてランプを使ってた時代さ――聞いたんだ。たしかHenry Martinってやつだったかな。そのギターが良い音しててね。それが耳に入ってきたんだよ。 ジャクソンでのことですか? フィッシュ・フライ屋はたぶんジャクソンじゃなかったと思うなあ。 田舎ではなく? ああ。田舎じゃなかったねえ。ミシシッピのレイモンドってとこだったか。ジャクソンからもそう遠くないよ。 両親は農場で働いていたのですか。 ああ。 小作人(sharecropper)だったのでしょうか? いや。Allen McNairって白人の下で働いてたんだ。 プランテーションのオーナーですか? そうだ。デカい苗畑を持っててね。綿、トウモロコシ、何でもやってたよ。でかいクルミの森もあって。わかるかい、外に出ると、クルミとか桃がなってる下なんだ。そうしてると、いろんな音が聞こえてくる。鳥とかな。ギターの話に戻ると、おれはそんな音は聴いたことがなかったんだ。その日からきょうまで、音楽はいろいろ聞いてきたけど、いまだにそんな音は二度と聞いたことがないね。 彼はスライドを弾いていたのでしょうか? スライドは使ってなかったね。俺とか、あんたとか、俺の親父が生まれるより前の音楽だったんだ。でも今じゃ、誰もあの音を知らないだろうね。彼は死んじまったし、今じゃ誰もあんな音は出せやしない。でも俺は何時だって覚えてるんだ。あの音をね。 大体何歳の頃でしょうか? おれが十一か十二の年だね。 十代のことで、何の曲だったかを思いだすのは難しいと思いますが……覚えていますか? 一曲よくあるやつをやってたね。何だっけな……教えたいんだけど。なにしろむかしだからな。一曲覚えてはいるんだけど、最初に「Mama, don't you tear my clothes」って歌ってたことしか思い出せない。 「You can push and pull all n...

翻訳:Earl Hooker インタビュー

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はじめに、定番の質問といきましょう。生まれはどこですか? ミシシッピのクラークスデイル。 誕生日は? 一月十五日だ。 何年かも教えてもらえますか? 俺が生まれたのは一九三〇年の一月十五日だ。 農場で生まれ育ったのですか。 いや、育ちはシカゴだよ、シカゴに引っ越したから。 なるほど、しかし子供のころは、周りの大人はプランテーションや何かで働いていたのでしょうか? ああ。母親も父親もファームで働いてたが、おれが一歳の時にシカゴに移り住んだんだ。 そうなのですね。 だからシカゴが俺の庭で、勝手がわかってるのもシカゴなんだ。 なるほど。ご家族はなにか楽器をやっていたんですか。お母さんは何か演奏しましたか。 おやじはハーモニカと、ギターと、バイオリンができた。おふくろは昔歌ってたんだよな。たぶん、Rabbit Foot Showで、大昔に。 歌手だったんですね。 うん。 家族の中に音楽があったわけですね。 家族はみんな歌えたよ。説教師も、歌手もいて、一人目のいとこにJoe Hintonがいた。「Funny How Time Slips Away」とか、たくさんレコードを作ったやつだ。 なんと、Joe Hintonがいとこなんですか。 そこの写真に写ってるのがJoe Hintonだよ。 本当ですね。あなたと親戚とは知りませんでした。あなたに、兄弟や姉妹はいたのですか? 妹がいてね。あいつもミュージシャンでオルガンと歌をやるよ。 妹さんもシカゴに住んでいるんですか? そう。 ご両親は辛い時代にここに引っ越したことと思いますが。 そうだな。大昔のことで、俺は何も知らないんだが。 あなたはシカゴで生まれ育った、そういうことですね。ところで、あなたがギターを弾き始めたきっかけになった人はいたのでしょうか?どうやって始めたのですか?最初は…… あー、Robert Nighthawkだな、それに、Leo BlevinsとKinky Blevinsっていうふたり兄弟がいてな。そいつらが音楽のやり方を教えてくれたのが最初だ。もともと俺はとんでもない悪童で、ストリートギャングと一緒に走り回ってたんだが、音楽をやり始めてからはそういう悪事はみんな頭から消し飛んじまって、音楽にハマりだしたんだ。最初のギターはSears & Roebuckのだった。毎週一ドルと五〇セント払ってたねえ。 エレク...

翻訳:Hound Dog Taylor インタビュー(1974)

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Hound Dog、いつから演奏を始めましたか? 1935年に、MississippiのTchulaあたりでだ。 誰を観ていましたか?それと、だれに影響を受けましたか? みんなさ。Elmore Jamesとか、Lightning Hopkins,Jimmy Rogers,Skip James,に、John Lee Hookerも観たよ。おれらはみんな一緒に育ったんだ。 どんな場所で演奏していたんですか。 アンプやらなにやらは何もないところでね。ただ家で演奏したんだ。Barrelhouseって呼んでたよ。 なぜ北に来ることにしたのですか? ああ、いろいろあってな。あのころはカラードの扱いってのはひどかった。もしカラードのやつについてなんか噂されたら、白人は確かめもせずに行動するような時代だ。白人女についての話で、そもそもは嘘だったんだけど、500人くらいの白人がおれを探しにきて、うちの周りを取り囲んだんだ。だからずらかったのさ。41年にまっすぐシカゴに行った。それから43年か44年あたりにはインディアナに来た。それ以来ずっとここだね。 大都市で暮らすにあたって自分を合わせる苦労はありましたか。 いや。おれにはいつも俺の考え方があったから、どこに合わせる必要もなかったね。なぜって自活してきたからな。おれには親父もいなかった。9歳の時にはおじさんがいたけど、おれを追い出した。それで、俺は自分の考え方を手に入れたわけだ。 ひとは、白人は黒人を嫌いだとか、はたまた黒人は白人を嫌いだとかいうが、俺の考え方はこうだ:俺は誰でもオールライトさ。それで問題になったことなんかねえ。 子どもの時、おれはギターを背負ってハイウェイを南に下っていった。白人相手にもプレイしたし、カラード相手でもプレイした。俺を変に扱う奴なんかいなかったぜ。みんなおれには同じに見えるよ。あんただってそうさ。人間と人間だよ。わかるだろ。 それでは、どうやってシカゴに行ったのですか? 夜の10時から朝の7時までバスに乗っていったのさ。ハイウェイの草むらに寝転がって隠れてたんだ。バスに乗りこんで、まずはメンフィスに行ったんだ。ニグロ用の小さいベンチに座ってな。白人側には柔らかいイスがあって、広かったっけな。 なぜシカゴに行ったのですか? おれの姉がいたんだ。だからRoosevelt roadで降りた。そこから赤い路面...