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翻訳:Fred Below インタビュー2

ジャズのバックグラウンドとして、だれを聴いてきたのですか?

あー、聴いてきたわけではないよ。私はなんとGene Ammonsと学校に行っていたんだ。それに、なんとBennie Greenともね。実はね、私が初めて組んだバンドにBennie Greenがいたんだ。

Johnny Griffinも。彼と私は同じクラス、同じ教室の、隣同士だったんだ。

私は軍隊に入って、一九五〇年に帰ってきた。ドイツで任期を終えたからね。音楽シーンに戻ってみると、Johnny Griffinや、Buddy Rich、Louis Bellsonとかのキャッツはみんなどこかに行ってしまっていたんだ! だから、私がシーンに戻らなければならなかったのさ。

シカゴに帰ったけど、Gene Ammonsとかのミュージシャン連中はみんなシカゴからいなくなっていた。みんな白人のビッグバンドに入っていて、彼らと連絡を取る方法もなかった。

それで、私はシカゴでElgin Evansってドラマーと出会った。Muddy Watersとやっていた人だ。それで彼が自分とやっていた連中を紹介してくれたんだ。

彼を介して、わたしはMemphis Slim、T-Bone Walker、そういう人たちと出会った。当時、Muddyがプレイするような音楽については全然わからなかった。でも、そのころブルースが街ではやっていたからわかりたくてね。それで、周りのやってるやつを見て、どうやってるのか勉強したのさ。

でも、それなりに苦労したよ。そのうちどうにか自分のやり方を見つけて、ほかのブルースの連中についていけるようになったけどね。

だから、私のスタイルはハープについてよく勉強したスタイルなんだよ。皆ドラマーを欲しがってたからね。わたしはLittle Walter――ベストのうちの一人――と演奏していたから、他の人とは一味違ってたんだ。なぜなら私はジャズミュージシャン出身として、ブルースを解釈してやっていたからね。違うやり方でビートを作り上げたんだ。

ええ、あなたのスタイルは素晴らしいものです。あなたの演奏をずっと聴いてきました。

それにDinah Washington、Big Bill Broonzy、Memphis Slimともやったよ。おっと、それにThe Moonglowsともね。「Sincerely」ってレコードを知ってる?

はい。あれはあなたが?

あれのドラムは私さ。(笑)

あなたがチェス・スタジオ録音でするとき、バンドは事前に曲を知らされていましたか?

誰を録るかによるね。Little Walterとやるときはいつもリハーサルがあった。それから録音するわけだ。ほかの奴はなかったね。「セッションがあって、来てほしい」って電話がある。それでスタジオに行ったら、セッションが始まっている。そこに私を放り込んで、「ドラムを入れてくれるか?」という具合。

しかし、The Acesのときは、あなたとMyers兄弟での仕事だったのでは?

ノー、ノー、ノー。全く違うよ。The Acesは、Little Walterと始まったけど、DaveとLouisはやめたんだ。それで私がひとりでWalterのところに残った。それからRobert Jr. LockwoodとLuther Tuckerが入ったんだ。

その四人がThe Acesと呼ばれたのですか?

違う。最初のバンドはJukesだった。Acesのメンバーはその中にいた――DaveとLouis Myersが。それから七〇年代初めに組みなおしてヨーロッパに行ったんだ。

レコーディングでは自分のドラムセットを使えましたか?

オー、私はいつも自分のドラムを使ってたよ。ほかの奴のドラムは叩かないよ。絶対にね。わかるかい、私はジャズ・ドラマーで、サウンドが好きなんだ。それにチューニングするのもね。ほかの奴のドラムを叩くのは好きじゃない。自分のドラムなら、触ったらどんな音がするかわかる。

私は自分のドラムをチューニングする。どんなドラマーだろうと大事なことだ。ドラマーを自称するのなら。自分の楽器については知ってなきゃならない。私はチューニングのやり方は知っているさ。学校で学んだからね。でも学校に行ってた頃は、言われてもそういうことに注意を払わなかった。どんな音楽をやろうとね。

私は学校に行って上手にやることを学んだけど、その辺にいるようなドラマーは何でもいいからとりあえず叩くような感じで、自分が何をやっているかもわかっていない。私はどんなバンドでも音楽でも合わせて叩ける。なぜなら私は演奏できるだけじゃなくて、譜面も読めるからね。そこが平均的なブルース・ドラマーとの違いだ。彼らはそういう音楽的背景を持ってないからだ。私は譜面の読み書きもできるし、その理解も十分にできる。けどそういう形式がないブルースに入っていったんだ。

そして五〇年代にやり始めたとき、わたしは彼らが三小節とか六小節でやっているとことを、四小節にした。六小節のところは八小節にした。そうやって一九五〇年の音楽を今日に至るまで聴けるように調整したわけだ。最近のブルース・プレイヤーはフレーズを弾くけど、みんな八か十二小節のフレーズだろう。でもその頃は、みんないい加減なフレーズを弾いていたんだ。形式というものがなかった。何をどうやるかっていうのは耳で聞いて曲を覚えるしかなかったんだ。

あなたがスタジオで使っていたセットについて覚えていますか? どのセッションでも同じセットでしたか?

いや、WFL、それからSlingerland、それにGretsch。後年にヨーロッパに行ったときはSonorのセットで、一九六五年のことだね。

Sonorの人たちが私に連絡を取って、Sonorのドラムが気に入っているかどうか、から何から何まで聞いたんだ。それで、とっても気に入ってると言って、アメリカに戻ったらSonorのセットがプレゼントされてたんだ。そうやってSonorのドラマーになったんだ。ヨーロッパとアメリカ中を回って、アフリカのあちこちに行ったときはずっとSonorだった。すごくいいよ。まだ持っているね。

五〇年代、ドラムに立てるマイクは何本でしたか?

ええとね。まずバスドラムに一本。それにsock cymbal(おそらくハイハットか)に一本、それからsockとライド・シンバルの間、右側に一本。つまり、つごう三本のマイクを立ててたね。

MuddyやLittle Walterのときはマイクをたくさん立てたりしませんでしたか?

ほとんどのブルースのセッションの時はそうやってセットアップしてたよ。ジャズの時は全く違ったが。

しかし、ドラムにミュート(muffling)したりしなかったのですか? 枕を付けるとか。

そうだね。ブルースのセッションの時はバスドラムのフロント・ヘッドを外して、中でミュートしていたよ。

イライラしませんでしたか?

いやいや。ものは慣れだよ。

ブルース・バンドのライブの時はそんなことはしませんか?

ああ。どんなバンドでもライブでそんなことはしない。ドラムのヘッドを外すなんてことはない。そんなことをする理由がわからないよ。ドラマーに足があって、足をコントロールできるんだったら、どんな音にでもチューニングはできるんだからね。でもあくまでコントロールだよ。コントロールができないのだったら、自分が何をやっているのかなんてわからないはずだ。私が電子ドラムの類が理解できないのはそういうわけで、あんなのはドラムじゃない。単に、特定の音楽で必要な音ってだけだよ。

シカゴを出る機会はよくありますか?

仕事があればどこにでも行くよ。

いつも同じバンドを連れて?

場合によるね。いつ仕事が来ても連絡が取れるようなミュージシャンのグループを持ってるんだ。でも、私は目の手術をやったからね。白内障の手術をやったんだ。

そうなんですか!調子はいかがですか?

いまは平気だよ。

良かった。

そういう調子だよ。私のバンドの仕事も多少はあるけど、今よく来るのは単独の仕事だ。私をいろいろなショウやなんかに呼ぶのさ。実際、明日シカゴ大学でショウがあるんだ。ブルースのセッションが。Little Willie Andersonとやるんだ。最近一緒にレコーディングした、シカゴのハーモニカ吹きさ。<了>



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