スキップしてメイン コンテンツに移動

翻訳:Hound Dog Taylor インタビュー(1974)

Hound Dog、いつから演奏を始めましたか?

1935年に、MississippiのTchulaあたりでだ。

誰を観ていましたか?それと、だれに影響を受けましたか?

みんなさ。Elmore Jamesとか、Lightning Hopkins,Jimmy Rogers,Skip James,に、John Lee Hookerも観たよ。おれらはみんな一緒に育ったんだ。

どんな場所で演奏していたんですか。

アンプやらなにやらは何もないところでね。ただ家で演奏したんだ。Barrelhouseって呼んでたよ。

なぜ北に来ることにしたのですか?

ああ、いろいろあってな。あのころはカラードの扱いってのはひどかった。もしカラードのやつについてなんか噂されたら、白人は確かめもせずに行動するような時代だ。白人女についての話で、そもそもは嘘だったんだけど、500人くらいの白人がおれを探しにきて、うちの周りを取り囲んだんだ。だからずらかったのさ。41年にまっすぐシカゴに行った。それから43年か44年あたりにはインディアナに来た。それ以来ずっとここだね。

大都市で暮らすにあたって自分を合わせる苦労はありましたか。

いや。おれにはいつも俺の考え方があったから、どこに合わせる必要もなかったね。なぜって自活してきたからな。おれには親父もいなかった。9歳の時にはおじさんがいたけど、おれを追い出した。それで、俺は自分の考え方を手に入れたわけだ。
ひとは、白人は黒人を嫌いだとか、はたまた黒人は白人を嫌いだとかいうが、俺の考え方はこうだ:俺は誰でもオールライトさ。それで問題になったことなんかねえ。
子どもの時、おれはギターを背負ってハイウェイを南に下っていった。白人相手にもプレイしたし、カラード相手でもプレイした。俺を変に扱う奴なんかいなかったぜ。みんなおれには同じに見えるよ。あんただってそうさ。人間と人間だよ。わかるだろ。

それでは、どうやってシカゴに行ったのですか?

夜の10時から朝の7時までバスに乗っていったのさ。ハイウェイの草むらに寝転がって隠れてたんだ。バスに乗りこんで、まずはメンフィスに行ったんだ。ニグロ用の小さいベンチに座ってな。白人側には柔らかいイスがあって、広かったっけな。

なぜシカゴに行ったのですか?

おれの姉がいたんだ。だからRoosevelt roadで降りた。そこから赤い路面電車に乗って姉のいた通りまで行ったよ、古いディンドンいうやつさ。

それから2年は働いたのではないですか?

West Madisonのアイスクリーム工場で3年はバタースコッチを作ってた。1957年にはAmerican Televisionに入った。

1950年代はじめのシカゴで面識があったミュージシャンを挙げてくれますか?

Muddy WatersがZanzbarのAshlandにいた。Little WalterとかJimmy Rogersと一緒にな。ああ、そこいらじゅう盛り上がらせてたぜ。35th通りと、あと、IndianaのSmitty's Cornerなんかも。31th通りにはThe Plantationがあって、そこがオリジナルの方のサニー・ボーイが殺されたところだ。47thの建物を上がったところでおれはLittle Walterと出会った。その頃のおれは、P.T. Haynesってハープマンと仕事をしてたんだけど、そいつは260ポンド(117キロ)もあるでかいキャット(ミュージシャン)だった。ほとんどはサウスサイドでやってたね。

Blue Flameには行っていましたか?

ああ。Buddy GuyやMagic Samと一緒にやってたよ。Buddy Guyはそこでやってて、俺は通りを下ったところのPeppersってとこでやってた。Buddyが外に座って例の長いコードのやつを弾いてたんで、「お前をずたずたにしちまうようなキャットがいるぜ」って言ってやったんだ。連れて来いっていうから、ウェストサイドに行ってMagic Samを捕まえてきた。実際、Buddyをズタズタにしちまったよ。
それから俺たちは友達さ。Buddy Guyは誰に会っても「Hound Dogはどこだ?」って聞いてたもんだ。死ぬ前のMagic Samは天性の声を持っていた。あいつは最高だった。
それ以来おれたちは友達だったし、ケンカもしようとはしなかったんだ。お互い手が出せないことがわかってたからさ。そこで、おれはギターをもっていってみんなずたずたにしたのさ。(?)
大事なこと言うぜ―ギターができるやつはたくさんいるが、みんな何も込めないんだ。
もし音楽をやってて、おれみたいにやるんだったら、テーブルの下の客の足がどうなってるか見るんだな。曲をやってるのにみんな見てるだけだったら、なにも客に食い込めてないってことさ。その曲はやめて次の曲にしろ。
で、また足を見る。みんなが足をタップしたりして動かしてるなら、そのまま続けな。ギターの弦が切れるまで弾きまくったっていいさ。でも客を何も動かしてなかったらやってないのと同じだ。足が動いてるならやれてるってこと。俺が見るのはそこだね。
キャッツが演奏してるところに入ったとして、客が何もしてなかったら演奏は観ないね。声を涸らそうがギターを弾きまくろうがだめさ。でも客を動かしだしたら、ミスしたって大丈夫だ。それでも客はついてきてくれる。CaliforniaのMadison Guitar Jr.(Lonnie Brooks)いるだろ、あいつは俺に似てるね。あいつは2分くらいの曲を、客が何を求めてるか見つけるまでやり続けるんだ。そこが秘訣だな。あいつは4年くらいあそこにいるけど、うまくやってるね。

Florence's Loungeで演奏し始めてからどのくらいになりますか?

1968年からだ。日曜にはすごく混むからそうは入れないぜ。最初にやり始めた日の客は2,3人。その次の日曜には10か15人。それから25から30人。最初は赤字だっただろうけど稼げるようになったんだ。ふつうのニグロは一攫千金といかなかったらすぐやめちまうもんだが。

ほかのミュージシャンが来始めるようになったのはいつですか?

やりだして半年後くらいには人混みができるくらいになったんだ。俺を観るためにね。みんながおれを見に来るほどFlorence'sも大きくなっていった。Florenceが死ぬまでおれはやり続けるよ。ほかのキャッツが来て俺より安いギャラでやらせろと言ってくることもあるが、彼女はそうはさせない。Hound Dogのはうちのバンドだと言ってくれてるんだ。たまに、儲かって大きくなってから安いバンドを呼ぶようになるとこもあるけど、そうしたらたくさんいた客は消えていっちまう。そんなバンドは聞きたくないからさ。みんなオリジナルが聞きたいんだ。だから、Mississippiから出てきたとき、おれの用意はできてたんだ。

Hound Dogというニックネームはどういう由来でついたんですか?

そこについてはまた一つ話があるけど、インタビューにこんなの載せない方が良いと思うぜ。まずくすると人からなんか言われるもんだろ。二人の女に二股かけてるとか言われたらどう思う?
(※訳者注:いつも女性を追いかけまわしている人を「Hound Dog」と呼ぶから、という説あり。)

"Give Me Back My Wig"のような曲はどのようにして書くのですか?

ただ、夜にベッドで横になってると、"Sadie"みたいな曲ができるんだよ。寝てるとできるんで、起き上がって、あたりを見まわしながら、頭の中を聴くと、誰かが演奏してるみたいによく聞こえるんだ。で、ギターを取って弾き始めるのさ。曲は全部頭の中にわいてくるんだ。
Elmoreの小僧もChicagoに出てきて俺をのめそうとしてたな。あいつはおれの曲をみんなやっちまった。あいつのやってることはみんなおれがMississippiにいたときやってたことなんだ。やつはB.B.Kingみたいな音楽のために学校に行ってたが、おれを見てからスタイルを変えたんだ。みんな俺がElmoreみたいにプレイするっていうけど、あいつが俺みたいにやってんだよ。俺は生涯このスタイルでプレイしてるんだ。
ひとつ言っとくけど、おれみたいにスライドをやれるやつを見つけられるなら連れてきてみなよ。俺はあれを全人生でやってるんだからな。俺はスライドを誰も聞いたことのないようなやり方で弾ける。普通のキャッツはできないぜ。John Littlejohnはカントリー・ブルースの曲をやったりするけどできてやしない。

ほかのChicagoのスライド・ギタリストについてはどうですか?

J.B.Huttoは多少できるけど、時々弱いよな。スライドは強くなきゃ。自分が何やってるのかわからなくなるとあれはめちゃくちゃになるんだよ。Homesick Jamesもいるけど、あいつは外れていっちゃうとなかなか戻ってこれないしなあ。Earl HookerはB.B.Kingみたいに弾けるし、Earl Hookerはうまかったな。俺と同じくらいは。

ソウル・ミュージックについてはどう思いますか?

良いよ、おれは大好きだぜ。

なぜクラブではやらないのでしょう?

一緒にやれるやつがいないからさ。Brewer Phillipsはソウルはできねえ。Ted Harveyはできるけど。ほら、おれはギターにトレモロをかけて歌えばオールライトにできる。それにベースもいたら。でも今はギタリスト2人とドラムだ。ベースマンがいたらみんながやってるようにやれるさ。

白人がブルースを演奏することについてはどう感じますか?

一つ話すとすると、前に海外からでっかいキャット(Long John Baldryだろうか)がPeppersに来たんだ。靴を持ってなくて、普通サイズの相棒を連れてたな。あいつらが俺の聴いた白人ブルースさ。あれはずば抜けてた。しかし、白人がブルースをやると、Oooomph(色気)やら何やらが足りないね。プレイはできるけど声か何かが弱いんだよな。よくはやってるけどね。
ホワイトはブラックになって、ブラックはホワイトになっているよな。最近の普通のニグロは自分のスタイルから外れていって、逆に白人がブルースに入ってきだしてる。

一つ言えるのは、ニグロが白人ともめてる限り白人はブルースもニグロから持っていっちまうだろう。ニグロに残ってるのはブルースだけなんだ。ブルースをやめちまったら何も残らねえ。ニグロはブルースがプレイできるんだぜ、ジャック。何しろ俺たちはブルースを一生涯抱えて生きてるんだからよ。それが、おれが今夜も飯の種にしてるもんだ。ほかのキャッツは自分にはわからないものをステージで歌ってるだけなんだ。

B.B.Kingとかはさ、いま世界で一番ビッグなブルースマンだろ。彼は自分の音楽、ブルースをやってるんだ。だから自分の音楽、スタイルをちゃんとやればいいんだよ。LouisとDave Myersを見てみな。Louisがブルースをプレイしようもんならもう図抜けてるよ。でも実際何やってるか見てみな。もう誰もLouisを観に来ない。あいつがステージに上がっても、自分のスタイルじゃないもんを演るもんだから自分が何やってるのかわからなくなってんだよ。ブルースをプレイすればハイになれるんだ。Count Basieやら、あの、譜面を読む音楽、Louis Jordan(彼も譜面は読めなかったようだが)やらの連中は違うスタイルでやってるけど、ちゃんと自分で理解しながら自分のもんを演奏してるんだ。他人の曲をやってもいいが自分のスタイルに変えることだな。

ピアノも弾いていたと言っていましたね。

Mississippiではピアノから始めたんだ。フラットワゴンに積んでピクニックだよ。唯一の問題はでかいグランドピアノを運ぶなんて到底無理ってことだ。ギターを弾き始めたのはどこにでも持ってけるからさ。ピアノは重すぎる。あんなもの背負ってもどこにも行けないぜ。

今日のChicagoのピアノプレイヤーはどうですか?

Otis Spannがベスト。Big Moose Walkerってモジャ頭とも今年の夏にやったけどそいつもマジでよかったね。Sunnyland Slimもマジで良いよ。でもあの人の音楽は1931年から変わってやしない。うちのギタープレイヤーのBrewer Phillipsみたいにな。あいつは1932年のまんまでプレイするんだ。

ブルース・レディとプレイしたこともあると言っていましたよね?

1950年代にBig MaybelleとKedzie Avenueでやったんだけど、全然うまくいかなかったんでバンドはクビになったよ。カラードのやることってのは、わかるだろ。2か月は一緒にやったな。彼女と最後に演奏したのはSouth ChicagoのClock Loungeでだ。今じゃWillie Mabonがプレイしてるとこだな。

白人客相手の演奏は好きですか?

ああ。俺は自分が気の毒なくらいノースサイドに行きたいんだ。日曜にプレイしてた、WrightwoodのAlices Revisitedとかさ。たしかJohnny Twistがいまじゃやってるんだっけかな?ノースに行きたいよ。ホントに残念だ。

ヨーロッパに行ったときはどうでしたか?

ああ、ほんと良かったけど、なんも楽しかなかったな。向こうからしたらアメリカ旅行は楽しいイベントみたいだけど、俺たちがあっちに行ってもなんにもわからないんだよ。楽しいかなんて問題外だな。向こうでいってすることと言えばギグに行って、帰って階段上ってホテルで寝るだけだぜ。それか窓の外でも見てるかさ。少しの金は稼いだけど。ロビーに行きゃ周りに見られるし、寄ってきて「町を見せてあげるよ!」なんて奴は一人もいねえ。あっちのやつがアメリカに来たらいつも町を紹介してやる奴がつくもんだけどなあ。ヨーロッパから来た奴は待遇が良いんだけど、逆はないんだよ。部屋は一晩で50とか60ドルもして、たった4時間しかいないんだ。ドイツのHamburgは行くには一番いいな。Hamburgはオールライトだ。友達もたくさんできるしな。ほかのとこは、まあOKって感じだけど、話しかけてくる奴来る奴が何を言ってんのか、頭フル回転じゃないとわかんないよ。だれかわかる奴を連れてかないと、メシの注文もできないしシャツ一枚買えねえ。バンドスタンドに上がってやっても音楽をやるだけで、おれたちが言ってることも客はみんなわかんねえからさ。サウンドは気に入ったみたいだがな。まあ、連中に音楽を届ければ、それでスタンディング・オベーションだよ。

ヨーロッパには誰と行ったのですか?

Brownie McGhee, Sonny Terry, Skip James, Bukka White, Koko Taylor, Little Walter, Odie Payne, Mahalia Jacksonとそのバンド、で全員かな。

これまで聴いた中で一番のハーププレイヤーは誰ですか?

そりゃLittle Walterだ、それ以外いないぜ!誰もが「そんなことできっこない」って言うようなものをあいつは持ってたんだ。
Shakey Head Horton,Big Walter、が一番って言う奴がたくさんいるし、あいつも確かにベストだったけどLittle Walterには到底かなわないね。Big WalterにはOoomphがないんだよ、もちろん奴は吹ける奴だぜ、誤解すんなよ。Wolfも自分の曲は吹けるけどWalterみたいなもんは持ってない。Little Walterは吹きたい曲は何でも吹けたんだ。Willie DixonはいつどこにもHortonを連れていくけど、あいつは使ってるだけさ。
前に俺はRose & Kelly'sでやってたとき、Big Walterにちょっと吹っ掛けてみたけどできなかった。向こうでLittle Walterとやった時、あいつはなんにでもついてきた。こっちが押せば向こうは引いて俺に戻してくるような感じさ。あんまりShakeyにそういうのをやらせようとすると怒って辞めちまうんだよ。若いCarey Bellもダメだね。あいつはいろいろできるけど、あいつはみんなを止めて自分だけ吹きたがるんだ。あいつが下がった時周りはそこに入ってやるんだけど、あいつは気づきもしない。周りで大きすぎるやつがいるとやつは吹くのをやめて、そいつの方に向き直ってにらむんだよ。あいつがミスしたら、おれはカバーしてやれるよ。スライドを入れて、ハープをカットしてやるさ。いつでも準備はできてる。
Little Walterはそんなザマはやらなかったね。こっちがハードにやれば向こうもますますブロウしたさ。俺たちはドイツのFrankfurtにいた―Koko Taylorが歌ってた。Little Walterが見てきたら俺はいつでもうなずいて返したよ。Walterがこっちを見たら受け取ってやるんだ。Kokoのやつはうまくいってなくて、誰かがカバーしなきゃならなかったからな。おれが4小節くらいやってLittle Walterに渡したらあいつが吹くのさ。Kokoは怒ってた。きびすを返してステージを降りようとしてた。運営のやつが戻したけど。降りようとしたら紙を投げられだしたんで戻ってきたんだ。でもKokoは間違ってたよ。Walterが吹いたらまたちゃんと彼女に戻すはずなんだから。

最初に45'sを出したとき、どういう経緯でレコード会社と話が出たのですか?

47thやDearbornで"Cadillac Baby"をやってたら、「Hound Dog、いい曲じゃないか。"My Babe's Coming Home"と"Take Five"も録りたいな」といわれたんだ。俺は、「いつでも」ってな。それで次の週にJackson Streetの3階に行ったら飲み屋みたいに観客がいて、俺はハイだった。ウイスキーも5本用意してて、めちゃくちゃ楽しかったよ。録音してたやつも俺たちと飲んでて、録る時間がないんでHound Dogの機嫌がいいうちにカットしちまおうとなった。
おれはChessが死ぬ前に行って、何枚かカットした。でもChessってのは大物だったから、彼が欲しい奴はもうみんな持ってた。死んでからはWillie Dixonが後釜になったけど十分な学がなくてな。あの手の商売はセンスが要るからな。息子が入ってきて、俺は少し録音した ("Sittin' All Alone" "Watchout" "Down Home Special")Shakey Hortonと、Lafayette Leakeと、Willie Dixonと、Lee Jackson、その他の連中とだった。

あなたのドラマーのTed Harveyはあたりのベスト・ドラマーの1人だと思います。なぜ録音したことがないのでしょう?

ああ、今あいつはベストだな。Fred Belowは落ちぶれてるし。あいつは飲みすぎる。もうウイスキーをやめられないんだ。Belowは街一番のドラマーだったけど、いまじゃTedが目をつぶってガムを噛んでるみたいな調子で酒を飲むようになっちまった。仕事はできるよ。どこにいて何をやるのかわかる状態ならな。Phillip(ママ)とかもそうで、あいつはうまいけど酔っぱらうと自分がどこにいるのかもわからなくなっちまう。まあ何やるにもどこに行くにも信頼できるやつではあるけどな。

今のバンドとはどこで出会ったのですか?

Phillipには8月あたりにWest Madisonで会った。それに息子のLeo。あいつはギターだ。最高だぜ。Leo Taylorだ。俺たちはプレイしてる間Phillipは路地で飲んでたんで、息子に一緒にやるかって聞いたら、「やりたくない」って言ったけどあいつは良かったんだ。で、外に出てポストの横でウイスキーを飲みながら座り込んでるPhillipを探し出した。あいつとその夜は演奏したけどあのキャットはすごくいいんだ。

今のHouserockersは街のどこで演奏してきたのですか?

どこでも全部だよ!The Copa Cabanna ClubでBig Bill Hillの生放送でも演奏したくらいだぜ。あそこでやってから、Ciceroで放送されたんだ。サウスのThe Phoenix Clubでもやったけど、その時は流れなかったんだよな。Big Bill Hillはシカゴじゃ大物だったからな。みんな昼間はあいつの番組を聴いてたよ。今じゃ夜の番組にしか出てこないけど。多分ボスともめたんだろ。だから何か悪巧みをして深夜の番組しかやらせないんだ。みんな寝てる時間のな。誤れば許してもらえると思うんだけどなあ、奴が乗ってた時はボスに指図できるくらいだったのに。

今後また南部に行くことはありますか?

Bruce、俺のブッキングエージェントがそうしろというならな。自分でいこうとは思わん。1940年代以来南部に行ったことはないんだ。今じゃだいぶ様子が違うだろう。まあ、行っても何の問題もないが。1930年とか40年代は荒っぽいとこだったよ。あっちでは2年くらい綿を摘んでた。それから運転手になってトラクターを走らせだしたんだ。仕事が来ればなんでもやった。一回、トラクターを燃やしちゃったことがあって、持ち主に「クビだ」って怒鳴られた。それからトラックを運転しだした。最終的には白いシャツにネクタイして運転してたぜ。朝から晩まで運転して週に2ドルか3ドルしかもらえなかったがな。
でもトラブルがあったからやめなきゃいけなかったんだ。主人の息子が結婚する前、おれはそいつのために運転手をやってたんだ。そいつは熱を上げてる女がいたんで、俺は二人を丘の上だのどこだのに連れていってた。彼女の方には友達がいた。そいつらもパーティーに連れて行った。もちろん俺は入れないんで、車で待ってたよ。そしたら女の方が車に走ってきた。おれはトウモロコシウイスキーを持ってた。ある夜に女が来て、ドアを開けて乗り込んできた。何のおかしなこともないんだが誰が見てたのかねえ。誰かに外から見られてて、それがトラブルになったんで、ずらからなきゃいけなかった。俺はただ二人を連れて帰したけど、次の夜には家の周り中に人が集まってたんだ。俺はそれを木陰で隠れて見てたよ。

その二人とは友達だったのですか。

友達でもなんでもねえ。誰も助けてくれやしないさ。みんなウサギみたいに逃げていったよ。その頃は白人男は家に上がり込んで黒人女をひっつかんで連れ出してもいい時代だったんだ。病気で寝ていたとしても、ベッドから引っ張り出して野っぱらに連れ出してもよかったんだ。こっちは何も言えない。
今状況が不穏なのはそういうわけだ。Mississippiからきた連中は白人に腹いせしてるんだ。たとえばあんたも、この街でも入れないような地域があるだろう。でもそりゃおかしい話だ。なんで知りもしない奴に怒らなきゃならないんだ?その時は白人に話しかけるのも無理だった。でも俺はLexingtonとDurantで白人相手にやってたよ。
連中は来て、おれに「おい、やれよ」なんていってたもんだ。俺が疲れたらおれは戻って、一人でウイスキーを飲んでた。あいつらはバーンダンスをやってバカみたいにピョンピョン跳ねてたよ。猿がかかとを蹴ってるみたいにな。それから俺は帰してもらえた。でも俺はウイスキーがありゃ気にしなかったよ。たまに2ドルもくれたりして、そりゃ大金だった。
ときどきニグロのマインドは違うってわからない奴らがいる。見ようとしないんだ。連中が育ってほしいようにニグロが教育されるまで1000年はかかるね。一部のニグロは、教育を受けるとただ自分のことだけ考える。そいつが俺より賢くなったら俺はそのまま押し込められるだけだ。テレビでニグロが大統領になるなんて言うやつがいるがまず1000年は無理だね。不可能だ。ニグロにも理性がないやつがいる。ただ怒って撃ってくるだけのやつが。おれはニグロが大統領選挙に立候補しても投票しないぜ。世界がひっくり返っちまう。

キング牧師が生きていたらどうですか?

それはまた違う話だ。Martin Luther Kingは運動できたけど後ろ盾がいなかった。Jesse Jacksonもいるが、あいつは人の足を引っ張ってるよ。Jesse jacksonはいかさま野郎さ。あいつはすべて神の監視下にあるみたいに言うけどニグロ住民は例外なんだ。あいつらは紙やら缶を投げて窓を割ったり、電池を盗んだり、頭を殴ったりする。Jesseはそれについては何も言わない。彼は一緒になろうとは言わない。こんなことはやめよう、人間らしくなろうとはな。みんなが俺のことを知らなきゃあんたはここに来れもしないだろうよ。連中はあんたをボロボロになるまで追い回すだろう。肌が白いからだ。そういうことについて奴が何か言ったなんて聞いたことがない。あのでかい帽子の「Panther」や「The Black Stone」のやつらにボコボコにされた男もいたけど、5,6人子供がいるのに、嫁さんはこれからどうやって食っていくんだ?Jesseはそういうことについては何も言わない。<了>




Source:http://ttexshexes.blogspot.com/2017/10/hound-dog-taylor-interview-circa-1974.html

※「ニグロ」「カラード」など、現在適切とはいえない表現、内容が含まれますが、1974年時点のインタビューであること、Hound Dog Taylorが黒人当事者の故人であるという事情を鑑み、表現の変更、削除はあえて行わず、原文どおりの表記としました。読者各位のご賢察をお願いいたします。

コメント

このブログの人気の投稿

翻訳:James Brown Taught Bootsy Collins To Play On The One(2010)

James Brownに「出来てない」とか、「お前は弾きすぎだ」とか言われてたことを覚えてるよ。 でも弾きすぎてたわけじゃないんだよ。ただ、Oneをプレイしてなかったんだ。 Oneをプレイしてないなんて俺自身は気づいてなかったんだけどな。バッチリだと思ってたぜ。(笑) でもJBは、「ああ、もう、お前な…ダメだ。」(マネしながら)俺はどこに行ったって、みんなに「お前、やべーよ!」って言われてたのにだぜ。 その当時のベースっていうのはこういう感じだったからな。(実演:3:35~。2・4の指パッチンをちゃんと聴いておきたい) なんてことないだろ?だから俺はいろいろほかのこともプレイしてたんだよ。 でもJBは「ああ~!!全く!! Give me the one!! oneをよこせ!oneを寄越せばほかに何やってもいいから!!」というんだ。 それで俺はわかりはじめたよ。「ああ。oneがあればほかのことやってもgreatになるのか。」 「そうだよ。oneを寄越せ。そうしたら全部良くなる。」 それで(oneを使ったプレイを)始めたわけだけど、それがきっかけだったんだ。James Brownこそが、最初に俺に「Son,you need to give me the one.」と言った人だったんだ。 彼が自分の言っていることをわかってたとは思ってないがね。意味は分かってても、そのパワーまでは知らなかったと思う。 oneは俺の人生まで変えちまったよ。oneがわかって、始まったんだ。それからParliamentやFunkadelicにもoneを持ち込んだよ。ファンクっていうのはoneなんだよ。 Source:  https://youtu.be/1WWDWdo0E4Y

翻訳:Fred Below インタビュー

プロのドラマーとして活動し始めた時の背景を教えてください。  40年代の初めごろ、DuSable高校に通っていた時、Johnny GriffinやEugene Wright(のち、The Dave Brubeck Quartet)とよく演っていたんだ。 同じ学校に通っていたからね。その時はトロンボーンを始めたのだけど、あまり向いていなかったからドラムに転向したんだ。  私の若いころ―というかもっと小さいころ、まさしく音楽に囲まれて育ったよ。30年代の初めごろは、子どもながらにVendomeやRegal TheaterやMetropolitanみたいなところに通っては、最高の黒人ビッグバンドを観たものだった。彼らはよくシカゴに来ていたからね。 高校に入るときに、Chick WebbとGene Krupaを観てドラムにすごく興味を持ったんだ。Cab Calloway と Billy Eckstineのバンドも観に行った。彼らは本当に俺を目覚めさせたね。 ドラムはArt Blakeyでしたよね?  そう。Art Blakey。まったくEckstineは凄い奴らを大勢抱えていた。彼らを聴いているとやろうという気持ちになったし、さらに興味も沸いていった。 俺は幸運にもそれぞれのメンバーを観て聴くことができたものだけど、なかなか今どきあんなバンドは見れるもんじゃないよね。Regalなんかに行っては、2、3回分のショウをぶっ続けで観たりしたよ。  今でも思い出すけど、私が卒業する直前にBilly Eckstineを見に行った時、彼は自分のビッグバンドを解散してソロになる直前だったんだ。 それはシカゴ公演最終日だったから、DuSable、PhilipsやEngwood高校の生徒が劇場に詰めかけていた。Billy Eckstineがステージに上ったとき、彼らは演奏を止めた。照明がついてみると、劇場は子供で満杯だったよ。子供を追い出すために3校の教師まで来ていたくらいでね。なかなかとんでもないことだったね!ビバップ前夜の話さ。(この段落自信なし) Chick Webbを観たときあなたは何歳だったのでしょうか?  10歳は超えていなかったね。 観て、感銘は受けたのでしょうか?  うーん、まだ音楽をやることに興味は持たなかったと思うけど、好きだったね。やっぱりBilly Eckstineに...

翻訳:Alabama Jr. Pettis(Daddy Rabbit) バイオグラフィ

生:一九三五年 没:一九八八年 四月 熱心なブルースファンなら、Alabama Jr.(Daddy Rabbit) Pettisの名はMagic Slim & The Teardropsに七三年から八三年の十年にわたって在籍したメンバーとして記憶しているだろう。Alabama Jr.はTeardropsのかすがいとして、Magic Slimのドライヴするギターと、Nick Holtの脈動するベースを、ていねいなバッキングでつなぎとめていた。Coleman Pettis Jr.(彼の本名である)は三〇年代半ばにアラバマで生まれた。八歳のとき母にギターを教えられ、子供時代は練習したりしなかったりする日々がつづいたという。手頃なギターがなかったとき、かれは長い棒に荷造り紐の両端を結びつけて、とにかく音を鳴らしていた。十代になる頃には、フィッシュ・フライの店で演奏するようになった。最初はソロで、それからもう一人のギタリストを加えてデュオで演奏し始めた。一晩で合わせて五ドルの稼ぎだった。一九五二年、彼はシカゴに移住した。そこで彼は最終的に「シカゴ・ブルース」の基礎を作り上げる、数々の素晴らしいミュージシャンと出会い、共に演奏するようになった。シカゴに到着したとき、Alabama Jr.は熱心にクラブに通った。もっとも熱いブルースが演奏される場所を見つけたらすぐに赴き、ただ聴くために。一九五六年まで、彼はLittle Walterのバックでベースを弾いていた。サウスサイドのたくさんのクラブで。そしてジョリエットでも一、二軒演奏する場所があった。Jr.が行っていたクラブの一つにTurner’s Loungeがある。彼がLee Jackson、Big Walter Horton、J.B. Hutto、Hayes Wareなどとともに演奏したところだ。Lee JacksonはJr.の大きな影響源となった。彼を励まして、ギターを続けさせたからだ。Little Walterのベーシストとしての期間を終え、彼はLee Jacksonのバンドで三年間リズム・ギターを弾いた。Tony's Blue Loungeという小さなクラブで。彼のおかげで、一九七三年には、Jr.は確かなギターの経験を積むことができていた。J.B. HuttoのDelmarkでの最初のレコーディング、「Ha...