スキップしてメイン コンテンツに移動

Billy Boy Arnold-"Harmonica Masterclass"

https://youtu.be/BzTCEbI0amI?si=cwT_V2jPu4FlSJIG



 俺の名前はBilly Boy Arnold……つまりブルースしか歌わない、って意味だ。これからブルースハーモニカについて話そうと思う。はじまりから今日に至るまでの歴史をね。


 ブルースのはじまりにおいて使われた楽器っていうのはふたつしかなかった。一番にピアノ。そしてギターがやってきた。その時はエレクトリックじゃなくてアコースティックギターだ。ギター弾きもハウス・パーティにやってきては演奏するようになった。そう、その頃のブルースには二つの中心的な楽器があって、ピアノが一番、ギターが二番だった。


 ハーモニカが目立つようになるのは一九三七年のこと……John Lee Williamson、Sonny Boy Williamson、つまりオリジナル・Sonny Boyが"Good Morning Little Schoolgirl"をRCAのBluebirdレーベルで録音したときだ。これが、ハーモニカが歴史を作った地点だね。

 "Good Morning Little Schoolgirl"はスマッシュ・ヒットだった。アメリカ中でうけたんだ。じっさい、Big Joe Williamsが言うにはSonny Boyは当時のブルース・シンガーの全員の録音に参加してたって話だ。"Good Morning Little Schoolgirl"を作った時に、彼はその頃の全員を超えちゃったんだな。


 "Good Morning Little Schoolgirl"がどれだけ人気だったかっていうと、Muddy Watersもハーモニカをやろうとしたし、Jimmy Rogersも、Eddie Boydもハーモニカを吹こうとしたんだ。そのくらい彼は特別でオリジナルだったから、みんなそれに乗っかろうとしたんだ。これが当時起きたことだよ。


 そしてほかにも、二人の素晴らしいハーモニカ・プレイヤーがいた。当時はレコードには登場しなかった人たちだ。一人はRice Miller……Sonny Boy No.2と、もう一人はBig Walter……Walter Hortonだ。たしかBig Walterがレコードを作ったのは1938年のことだな。おれがそのレコードを聴いたとき、誰だかは知らなかったが、ふつうのハーモニカ吹きじゃないことはわかった。誰だ? このハーモニカ吹きは? すげえ、って言ったもんだよ。それでBig Walter Hortonだったってことがわかったんだ。


 でもRice Miller、Sonny Boy No.2はまだレコードを作ってなかった。実際彼はJohn Lee Williamsonの親友で、Jackson,Tennesseeの彼の家に遊びに行っては……John Lee"Sonny Boy" Williamsonは一九三八年ごろの数年はHelena,Arkansasに住んでた……だからどこでその二人が会ったのかは知らないけど、とにかくいい友達になって、"Good Morning Little Schoolgirl"を作ったころにはRice Millerは彼の家によく訪ねていた。

 まあ、Sonny Boy Willamsonがハーモニカをブルースの三つ目の楽器にしたんだ。


 新しくシーンに現れたハーモニカ・プレイヤーは若いやつで、Marion "Little Walter" Jacobsだ。Little Walterは一九四七年にシカゴに来て、Sonny Boyに会った。Sonny Boyは彼に「お前は速く吹きすぎだ、速すぎだよ」と言ったみたいだが、Little WalterはSonny Boyを模倣していたし、影響を受けていた。でもLittle Walterは自分のテクニックを持っていたんだな。Little Walterの手で、ハーモニカはブルースの二番目の楽器になったんだ。


 おれがブルースのレコードを聴いたのは六か七歳のころで、当時の最新のブルースはたいがいRCA VictorのBluebirdレーベルから出ていた。Doctor Clayton、Memphis Slim、Sonny Boy Williamson、Memphis Minnie、Big Bill Broonzy、Jazz Gillum、Arthur "Big Boy" Crudup…Roosevelt Sykes…そのころの偉大なブルース・シンガーだ。黒人の聴衆に向けた現行のレコードだね。ほとんどの黒人のリスナーは78回転盤ばかり聴いていた。それで……おれが初めてブルースのレコードを聴いたのは一九四一年くらいのことで、俺は六歳だった。そのなかでも特にSonny Boy Williamsonだった。ハーモニカを吹いてるということもよく知らなかったけど、おれは彼の音も声も、曲も好きだった。とくに"Mattie Mae"と"Coal And Iceman Blues"なんかね。


 レコード屋に行って、Sonny Boy Williamsonがあるか訊いたんだ。すると最新の、"Polly Put The Kettle On"と"Lacey Belle"があった。それを買って帰って練習してると、親父がおふくろと話してて、「こいつならこないだClub George(?)に来たぜ」と言ったんだ。それを聞いて「ええ? Sonny BoyってChicagoに住んでるの?」と訊くと、やつがClub Georgeに来て歌い出したら、みんな「Hey, Sonny Boy, Hey Sonny Boy」ってはやして金を投げてたんだよと答えた。それでSonny BoyがChicagoに住んでることがわかった。


 それからというもの、ハーモニカの吹き方を学びたい、っていう気持ちがどんどん強く燃え上がってね。それでもっとSonny Boyのレコードを買ったんだ。そのころ街中のレコード屋に、八か十タイトルのSonny Boyのレコードが置いてたから、買えるだけのレコードを買い込んで練習したんだ。


 ある土曜におれはGiles(?)の三十一番通りにあったおじの店で働いていた。するとギターを持った男が通りがかったんで外に走り出て、「ねえ、ねえ、Sonny Boyって知ってる?」と訊いたら、「ああ、知ってるよ」と、Sonny BoyがGiles(?)の三二二六に……その肉屋のたった一ブロック隣に住んでいることを教えてくれた。それでまた駆け戻って住所を書き留めたんだ。

 勇気を出してSonny Boyの家を訪ねると彼は留守だった。次の週にいとこを連れてもう一度行ったけど、やはり留守だった。それで、毎週土曜日にいとこと友達をもう一人連れてショウに行こうと言ったんだ。Sonny Boyの家に行った後、ショウを観に行こうってね。するとふたりとも「いやいや、ショウに行ってからSonny Boyの家に行きゃいいじゃないか」と言う。


 まあその土曜は映画が四時に終わったあと、三三番通りに足を向けて、Sonny Boyの家に歩いたんだ。俺たちはSonny Boyに会ったこともなかった。で、ベルを鳴らすと、とても肌の黒い、洒落た服を着た男が出てきた。髪が多かったな。彼は「どうかしたかね」と訊くので、「Sonny Boyに会いたいんだ」と言うと、彼は「俺がSonny Boyだよ」と答えた。ハーモニカを聴きたいといったら、「入りなよ、皆んなで来てくれて光栄だよ」と彼は応えた。


 Sonny Boyにいった。ハーモニカに「wah wah wah」って言わせるにはどうするのか聞きたいと。おれはダブル・リードやクロマティックのハーモニカをたくさん持っていたんだけど、Sonny Boyはそれを見て笑った。そうだ、「あんたのハーモニカを見せてよ、Sonny Boy」と言ったら、彼は奥さんに「俺のハープどこだ?」と訊いた。コートのポケットに入っていた。とりだされたふたつのMarine Bandはよく使い込まれていたよ。彼はMarine Bandを吹いていたんだ。


 そして彼はどうやってchokeするか見せてくれた。今は音をbendすると言うけど、当時の黒人はみんなchokeって用語を使っていた。そしてハーモニカをchokeすると(9:14〜)こうやってchokeするとブルースのサウンドが得られるんだ。Sonny Boyはおれにchokeのやり方を見せてくれた。

 おれはSonny Boyに「あんたみたいに演奏できるよ、レコードみたいに」といった。彼はレコードをかけてくれて、おれはそれに合わせて吹いた。chokeはできなかったけど同じ音が出せてると思ってたんだ。俺が全部の歌詞を憶えてるのを見て、「おまえ俺よりうまくなるよ」と笑ってたね。

 彼はchokeのやり方の説明に戻って言った。「ハーモニカをchokeするには舌を1番と2番の間に置くんだ(9:52〜)そして吸う」

 ……こうして俺はブルース・ハーモニカをはじめたんだ。おれにブルースをやりたくさせたのはハーモニカで、俺はSonny Boyみたいになりたかった。Sonny Boyみたいに演って、歌いたかったんだ。

 (10:10〜"Urban" blues 演奏)

随時更新(最新:3/28)

コメント

このブログの人気の投稿

翻訳:James Brown Taught Bootsy Collins To Play On The One(2010)

James Brownに「出来てない」とか、「お前は弾きすぎだ」とか言われてたことを覚えてるよ。 でも弾きすぎてたわけじゃないんだよ。ただ、Oneをプレイしてなかったんだ。 Oneをプレイしてないなんて俺自身は気づいてなかったんだけどな。バッチリだと思ってたぜ。(笑) でもJBは、「ああ、もう、お前な…ダメだ。」(マネしながら)俺はどこに行ったって、みんなに「お前、やべーよ!」って言われてたのにだぜ。 その当時のベースっていうのはこういう感じだったからな。(実演:3:35~。2・4の指パッチンをちゃんと聴いておきたい) なんてことないだろ?だから俺はいろいろほかのこともプレイしてたんだよ。 でもJBは「ああ~!!全く!! Give me the one!! oneをよこせ!oneを寄越せばほかに何やってもいいから!!」というんだ。 それで俺はわかりはじめたよ。「ああ。oneがあればほかのことやってもgreatになるのか。」 「そうだよ。oneを寄越せ。そうしたら全部良くなる。」 それで(oneを使ったプレイを)始めたわけだけど、それがきっかけだったんだ。James Brownこそが、最初に俺に「Son,you need to give me the one.」と言った人だったんだ。 彼が自分の言っていることをわかってたとは思ってないがね。意味は分かってても、そのパワーまでは知らなかったと思う。 oneは俺の人生まで変えちまったよ。oneがわかって、始まったんだ。それからParliamentやFunkadelicにもoneを持ち込んだよ。ファンクっていうのはoneなんだよ。 Source:  https://youtu.be/1WWDWdo0E4Y

翻訳:Fred Below インタビュー

プロのドラマーとして活動し始めた時の背景を教えてください。  40年代の初めごろ、DuSable高校に通っていた時、Johnny GriffinやEugene Wright(のち、The Dave Brubeck Quartet)とよく演っていたんだ。 同じ学校に通っていたからね。その時はトロンボーンを始めたのだけど、あまり向いていなかったからドラムに転向したんだ。  私の若いころ―というかもっと小さいころ、まさしく音楽に囲まれて育ったよ。30年代の初めごろは、子どもながらにVendomeやRegal TheaterやMetropolitanみたいなところに通っては、最高の黒人ビッグバンドを観たものだった。彼らはよくシカゴに来ていたからね。 高校に入るときに、Chick WebbとGene Krupaを観てドラムにすごく興味を持ったんだ。Cab Calloway と Billy Eckstineのバンドも観に行った。彼らは本当に俺を目覚めさせたね。 ドラムはArt Blakeyでしたよね?  そう。Art Blakey。まったくEckstineは凄い奴らを大勢抱えていた。彼らを聴いているとやろうという気持ちになったし、さらに興味も沸いていった。 俺は幸運にもそれぞれのメンバーを観て聴くことができたものだけど、なかなか今どきあんなバンドは見れるもんじゃないよね。Regalなんかに行っては、2、3回分のショウをぶっ続けで観たりしたよ。  今でも思い出すけど、私が卒業する直前にBilly Eckstineを見に行った時、彼は自分のビッグバンドを解散してソロになる直前だったんだ。 それはシカゴ公演最終日だったから、DuSable、PhilipsやEngwood高校の生徒が劇場に詰めかけていた。Billy Eckstineがステージに上ったとき、彼らは演奏を止めた。照明がついてみると、劇場は子供で満杯だったよ。子供を追い出すために3校の教師まで来ていたくらいでね。なかなかとんでもないことだったね!ビバップ前夜の話さ。(この段落自信なし) Chick Webbを観たときあなたは何歳だったのでしょうか?  10歳は超えていなかったね。 観て、感銘は受けたのでしょうか?  うーん、まだ音楽をやることに興味は持たなかったと思うけど、好きだったね。やっぱりBilly Eckstineに...

翻訳:Alabama Jr. Pettis(Daddy Rabbit) バイオグラフィ

生:一九三五年 没:一九八八年 四月 熱心なブルースファンなら、Alabama Jr.(Daddy Rabbit) Pettisの名はMagic Slim & The Teardropsに七三年から八三年の十年にわたって在籍したメンバーとして記憶しているだろう。Alabama Jr.はTeardropsのかすがいとして、Magic Slimのドライヴするギターと、Nick Holtの脈動するベースを、ていねいなバッキングでつなぎとめていた。Coleman Pettis Jr.(彼の本名である)は三〇年代半ばにアラバマで生まれた。八歳のとき母にギターを教えられ、子供時代は練習したりしなかったりする日々がつづいたという。手頃なギターがなかったとき、かれは長い棒に荷造り紐の両端を結びつけて、とにかく音を鳴らしていた。十代になる頃には、フィッシュ・フライの店で演奏するようになった。最初はソロで、それからもう一人のギタリストを加えてデュオで演奏し始めた。一晩で合わせて五ドルの稼ぎだった。一九五二年、彼はシカゴに移住した。そこで彼は最終的に「シカゴ・ブルース」の基礎を作り上げる、数々の素晴らしいミュージシャンと出会い、共に演奏するようになった。シカゴに到着したとき、Alabama Jr.は熱心にクラブに通った。もっとも熱いブルースが演奏される場所を見つけたらすぐに赴き、ただ聴くために。一九五六年まで、彼はLittle Walterのバックでベースを弾いていた。サウスサイドのたくさんのクラブで。そしてジョリエットでも一、二軒演奏する場所があった。Jr.が行っていたクラブの一つにTurner’s Loungeがある。彼がLee Jackson、Big Walter Horton、J.B. Hutto、Hayes Wareなどとともに演奏したところだ。Lee JacksonはJr.の大きな影響源となった。彼を励まして、ギターを続けさせたからだ。Little Walterのベーシストとしての期間を終え、彼はLee Jacksonのバンドで三年間リズム・ギターを弾いた。Tony's Blue Loungeという小さなクラブで。彼のおかげで、一九七三年には、Jr.は確かなギターの経験を積むことができていた。J.B. HuttoのDelmarkでの最初のレコーディング、「Ha...