スキップしてメイン コンテンツに移動

翻訳:Alabama Jr. Pettis(Daddy Rabbit) バイオグラフィ


生:一九三五年 没:一九八八年 四月

熱心なブルースファンなら、Alabama Jr.(Daddy Rabbit) Pettisの名はMagic Slim & The Teardropsに七三年から八三年の十年にわたって在籍したメンバーとして記憶しているだろう。Alabama Jr.はTeardropsのかすがいとして、Magic Slimのドライヴするギターと、Nick Holtの脈動するベースを、ていねいなバッキングでつなぎとめていた。Coleman Pettis Jr.(彼の本名である)は三〇年代半ばにアラバマで生まれた。八歳のとき母にギターを教えられ、子供時代は練習したりしなかったりする日々がつづいたという。手頃なギターがなかったとき、かれは長い棒に荷造り紐の両端を結びつけて、とにかく音を鳴らしていた。十代になる頃には、フィッシュ・フライの店で演奏するようになった。最初はソロで、それからもう一人のギタリストを加えてデュオで演奏し始めた。一晩で合わせて五ドルの稼ぎだった。一九五二年、彼はシカゴに移住した。そこで彼は最終的に「シカゴ・ブルース」の基礎を作り上げる、数々の素晴らしいミュージシャンと出会い、共に演奏するようになった。シカゴに到着したとき、Alabama Jr.は熱心にクラブに通った。もっとも熱いブルースが演奏される場所を見つけたらすぐに赴き、ただ聴くために。一九五六年まで、彼はLittle Walterのバックでベースを弾いていた。サウスサイドのたくさんのクラブで。そしてジョリエットでも一、二軒演奏する場所があった。Jr.が行っていたクラブの一つにTurner’s Loungeがある。彼がLee Jackson、Big Walter Horton、J.B. Hutto、Hayes Wareなどとともに演奏したところだ。Lee JacksonはJr.の大きな影響源となった。彼を励まして、ギターを続けさせたからだ。Little Walterのベーシストとしての期間を終え、彼はLee Jacksonのバンドで三年間リズム・ギターを弾いた。Tony's Blue Loungeという小さなクラブで。彼のおかげで、一九七三年には、Jr.は確かなギターの経験を積むことができていた。J.B. HuttoのDelmarkでの最初のレコーディング、「Hawk Squat」に参加したことで、Jr.は巧みで独自性のある伴奏者としての評価も勝ち取った。


七三年のある夜、彼はMr. Pitiful & The TeardropsというバンドをWentworthの29番通りのBo Weavilクラブに聴きに行った。彼らの演奏を気に入ったJr.は足繁く通うようになった。ある時はシット・インし、ある時はただ聴くために。Magic Slimは当時バンドのメンバーだったが、そのうちバンドリーダーになった。Mr. Pitifulが辞めることになったからである。SlimはAlabama Jr.のプレイを気に入っていたので、Mr. Pitifulが脱退した後、いくつかのメンバーチェンジを経て、最終的に彼を雇った。そしてバンド名をMagic Slim & The Teardropsに改めた。七三年にSlimとバンドは、日曜日午後のジャムの枠をHound Dog Taylorから奪い、シカゴで最もホットで、タイトなブルースバンドとして成長していった。Alabama Jr.の評価はこのバンドであがっていった。SlimはJuniorの精確なリズムプレイと、彼自身のサウンドとの間で完璧な相補関係を作ることができた。このコンビネーションが成功したのは、Jr.の能力ーー他のバンドメンバーを強化するために適切な音を知っていることーーに依るものだ。彼が説明することには、「いろんな奴が俺に訊いてくる。『どんなコードを弾いてるんだ? お前は他のやつみたいな普通のコードを弾かないよな』と。俺が弾くタイプのコードっていうのは、おれが『ダウン・コード』って呼んでるやつだ。俺はフラット9thのコードを使う。ほとんどのコードを弾くやつは使わないがね。おれはSlimのギターを9thコードにブレンドするように弾こうとしていた。ジミー・リード・ビートでね。それで、リード・ギターとベースの間にヘヴィな背景をつけたんだ。」


Alabama Jr.を素晴らしいミュージシャンたらしめたのは、このような意識的で創造的なアプローチ、そして技術だったのだろう。

コメント

このブログの人気の投稿

翻訳:James Brown Taught Bootsy Collins To Play On The One(2010)

James Brownに「出来てない」とか、「お前は弾きすぎだ」とか言われてたことを覚えてるよ。 でも弾きすぎてたわけじゃないんだよ。ただ、Oneをプレイしてなかったんだ。 Oneをプレイしてないなんて俺自身は気づいてなかったんだけどな。バッチリだと思ってたぜ。(笑) でもJBは、「ああ、もう、お前な…ダメだ。」(マネしながら)俺はどこに行ったって、みんなに「お前、やべーよ!」って言われてたのにだぜ。 その当時のベースっていうのはこういう感じだったからな。(実演:3:35~。2・4の指パッチンをちゃんと聴いておきたい) なんてことないだろ?だから俺はいろいろほかのこともプレイしてたんだよ。 でもJBは「ああ~!!全く!! Give me the one!! oneをよこせ!oneを寄越せばほかに何やってもいいから!!」というんだ。 それで俺はわかりはじめたよ。「ああ。oneがあればほかのことやってもgreatになるのか。」 「そうだよ。oneを寄越せ。そうしたら全部良くなる。」 それで(oneを使ったプレイを)始めたわけだけど、それがきっかけだったんだ。James Brownこそが、最初に俺に「Son,you need to give me the one.」と言った人だったんだ。 彼が自分の言っていることをわかってたとは思ってないがね。意味は分かってても、そのパワーまでは知らなかったと思う。 oneは俺の人生まで変えちまったよ。oneがわかって、始まったんだ。それからParliamentやFunkadelicにもoneを持ち込んだよ。ファンクっていうのはoneなんだよ。 Source:  https://youtu.be/1WWDWdo0E4Y

翻訳:Fred Below インタビュー

プロのドラマーとして活動し始めた時の背景を教えてください。  40年代の初めごろ、DuSable高校に通っていた時、Johnny GriffinやEugene Wright(のち、The Dave Brubeck Quartet)とよく演っていたんだ。 同じ学校に通っていたからね。その時はトロンボーンを始めたのだけど、あまり向いていなかったからドラムに転向したんだ。  私の若いころ―というかもっと小さいころ、まさしく音楽に囲まれて育ったよ。30年代の初めごろは、子どもながらにVendomeやRegal TheaterやMetropolitanみたいなところに通っては、最高の黒人ビッグバンドを観たものだった。彼らはよくシカゴに来ていたからね。 高校に入るときに、Chick WebbとGene Krupaを観てドラムにすごく興味を持ったんだ。Cab Calloway と Billy Eckstineのバンドも観に行った。彼らは本当に俺を目覚めさせたね。 ドラムはArt Blakeyでしたよね?  そう。Art Blakey。まったくEckstineは凄い奴らを大勢抱えていた。彼らを聴いているとやろうという気持ちになったし、さらに興味も沸いていった。 俺は幸運にもそれぞれのメンバーを観て聴くことができたものだけど、なかなか今どきあんなバンドは見れるもんじゃないよね。Regalなんかに行っては、2、3回分のショウをぶっ続けで観たりしたよ。  今でも思い出すけど、私が卒業する直前にBilly Eckstineを見に行った時、彼は自分のビッグバンドを解散してソロになる直前だったんだ。 それはシカゴ公演最終日だったから、DuSable、PhilipsやEngwood高校の生徒が劇場に詰めかけていた。Billy Eckstineがステージに上ったとき、彼らは演奏を止めた。照明がついてみると、劇場は子供で満杯だったよ。子供を追い出すために3校の教師まで来ていたくらいでね。なかなかとんでもないことだったね!ビバップ前夜の話さ。(この段落自信なし) Chick Webbを観たときあなたは何歳だったのでしょうか?  10歳は超えていなかったね。 観て、感銘は受けたのでしょうか?  うーん、まだ音楽をやることに興味は持たなかったと思うけど、好きだったね。やっぱりBilly Eckstineに...