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Magic Slim Interview

このショートインタビューに応じてくださってありがとうございます。ミシシッピで育ったなかで、最初の音楽に関する記憶は何でしょうか?

ピアノ。

あなたは音楽一家の中で育ったのですか?

いや。俺のママが唯一演奏を始めただけだな。

いつもミュージシャンになりたいと思っていましたか?

うーん。田舎で小作人をやってると、自分が何になりたいかなんてわかんないもんだよ。

あなたはピアノから音楽を始めたと話してくださいました。しかしギターに切り替えたのですね?

十四の時に手を怪我して小指がなくなっちゃったから、ピアノが弾けなくなって、ギターに替えたんだ。

音楽を始めたころは何を弾いていましたか?

ブルーグラス、カントリー&ウェスタン。

なにがブルースに宗旨替えさせたのでしょうか?

John Lee Hookerの「Boogie Chillun」を聴いてからブルースに転向したんだ。

そして、戻らなかった!

ああ~。そのまま行ったよ。

Magic Slimという芸名の由来は?

Magic Samがくれたんだ。むかし俺はスリムで背が高くて、腹もどこも出ちゃいなかったからね。

素晴らしい!しばらく彼のバンドにいたんですか。

そうだ。あいつが死ぬ前に、「その名前でいけ、そしたら有名になるから」と言ってくれてね。

実際そうなりましたね。

ふむ……頑張ってやってるよ!

作曲や演奏において一番影響を受けたのは誰ですか?

そうだなあ、おれはみんなみんな聴いてきたけど、誰っていうのはないんだ。誰のようにも弾きたくなかったからね。おれはおれのサウンドを作らなきゃいけなかったからさ。どういうスタイルに行くかってことのために聴きはしたけどね。でもおれは誰のようにも弾きたくなかったし、だれも俺のように弾こうともしなかった。俺の今があるのはそういうわけさ。

そうして自分のギタースタイルを作ったのですね。どうやってスライドのサウンドを得ているのか教えてください。ほかの誰とも違うスタイルだと思います。

ああ、俺は指をスライドさせるんだ。ガラスだのなんだのは使わないね。

膨大なレパートリーがありますよね。なにか特別な思い入れがある曲はありますか?

全部、全部さ。

WC Handy賞のベスト・ブルース・バンド部門を六回受賞していますね。あなたにとって特別なことでしたか?

ああ。スペシャルなことだね。

The Teardropsについて聞かせてください。Jon McDonald(Gt)、Chris Beidron(Ba)、Vernal Taylor(Dr)の。いつ結成したのですか?

ずっと前だよ。シカゴに行って最初のころ、おれはRobert Perkinsってやつとやっててそいつのあだ名がTeardropだった。Mr.Pitiful and the Teardropsっていう名前のバンドだった。あいつはいつも泣いてて、年増の女にぞっこんだったからね。何があったのか知らないんだけど、あいつはやめて、おれはバンドを続けた。「the Teardropって名前はあげるよ」って言われたからそのままにしたんだ。

あなたの新作、「Raising the Bar」について教えてください。古いものと新しいもののミクスチャーですよね。

そうだね。

ルーツ・ミュージック・チャートで一位を取ったんですよね?

ああ。

消えていくジャンルもありますがブルースは生きながらえていますね。なぜだと思いますか?

なんでかは知らないけど、ブルースにファンクを入れすぎるやつがいっぱいいるよね。俺は変えないし、あんなにファンクを持ち込んだりしないよ。おれはブルースをやり続けるからね。

すばらしい。ブルースの未来はどうなっていくと思いますか?続いていくと思いますか?

ブルースは死なないよ。ブルースはスローだ。ロックンロールはウケるけど、一か月か二か月もしたら誰も聞かなくなる。ブルースは聴き続けられるんだ。

みんなブルースに帰るというわけですね。

Yeah!

Colne R&B フェスティバルについてはどう思いますか?

おれが二つもショウをやるなんて知らなかったけど、友達とやれたから悪くなかったよ。でもなによりよかったのはジャックダニエルがあったところだね。ノー・ジャックダニエル、ノー・ショウ!ハハハ!!

ありがとうございました。とても感謝しています。

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