スキップしてメイン コンテンツに移動

翻訳:Earl Hooker インタビュー

はじめに、定番の質問といきましょう。生まれはどこですか?

ミシシッピのクラークスデイル。

誕生日は?

一月十五日だ。

何年かも教えてもらえますか?

俺が生まれたのは一九三〇年の一月十五日だ。

農場で生まれ育ったのですか。

いや、育ちはシカゴだよ、シカゴに引っ越したから。

なるほど、しかし子供のころは、周りの大人はプランテーションや何かで働いていたのでしょうか?

ああ。母親も父親もファームで働いてたが、おれが一歳の時にシカゴに移り住んだんだ。

そうなのですね。

だからシカゴが俺の庭で、勝手がわかってるのもシカゴなんだ。

なるほど。ご家族はなにか楽器をやっていたんですか。お母さんは何か演奏しましたか。

おやじはハーモニカと、ギターと、バイオリンができた。おふくろは昔歌ってたんだよな。たぶん、Rabbit Foot Showで、大昔に。

歌手だったんですね。

うん。

家族の中に音楽があったわけですね。

家族はみんな歌えたよ。説教師も、歌手もいて、一人目のいとこにJoe Hintonがいた。「Funny How Time Slips Away」とか、たくさんレコードを作ったやつだ。

なんと、Joe Hintonがいとこなんですか。

そこの写真に写ってるのがJoe Hintonだよ。

本当ですね。あなたと親戚とは知りませんでした。あなたに、兄弟や姉妹はいたのですか?

妹がいてね。あいつもミュージシャンでオルガンと歌をやるよ。

妹さんもシカゴに住んでいるんですか?

そう。

ご両親は辛い時代にここに引っ越したことと思いますが。

そうだな。大昔のことで、俺は何も知らないんだが。

あなたはシカゴで生まれ育った、そういうことですね。ところで、あなたがギターを弾き始めたきっかけになった人はいたのでしょうか?どうやって始めたのですか?最初は……

あー、Robert Nighthawkだな、それに、Leo BlevinsとKinky Blevinsっていうふたり兄弟がいてな。そいつらが音楽のやり方を教えてくれたのが最初だ。もともと俺はとんでもない悪童で、ストリートギャングと一緒に走り回ってたんだが、音楽をやり始めてからはそういう悪事はみんな頭から消し飛んじまって、音楽にハマりだしたんだ。最初のギターはSears & Roebuckのだった。毎週一ドルと五〇セント払ってたねえ。

エレクトリックでしたか?それとも……

いや、昔のラウンドホールのやつさ。今じゃフォークギターとかいうやつだね。

Robert(Nighthawk)からスライドなどを習ったのですか?

ああ、Robert Nighthawkに教わったよ。あいつを観に通ってたから、俺のスタイルもできたんだ。

彼はほとんどシカゴで演奏していたのですか?

そうだよ。一度はミュージック・ストアまでやってたんだぜ。

彼がお店をやっていたんですか?

そうそう。俺はやつの店に通って、Robertの演奏を聴いてた。それが音楽のやり方を知った最初さ。俺がやり慣れてきて、ずいぶんうまくなってから、Lyon & Healys'のミュージック・ストアで演奏したりするようになった。

相当たくさんの人の教えを受けてきたわけですね。

ああ、そうだよ。

あなたはシカゴで一番のテクニシャンの一人ですが、それがその理由かもしれませんね。みんなあなたがずば抜けてうまいことは知っていますから……

まあな。

ええ、本当に。……私はバックグラウンドについて知りたいのです。誰から学んだのか、その人を素晴らしいミュージシャンにさせているものは何なのか。あなたはこの街で史上最高のサイドマンとして知られていますから、なおさら伺いたいんです。

ふんふん。(肯定的に)

最初のレコードを作ったのはいつでしたか?最初に人と一緒に演奏したのはいつか覚えていますか?

おれの最初のレコードかい?

そうです。

はじめての録音はKingのレーベルで出したやつだ。それからRace Track Bluesっていうのを出したのが俺の最初のレコードだな。
それからはいくつもレコード会社に出入りしたよ。Junior Wellsとか、いろんなやつとな。

ええ、素晴らしいギターを弾いていますよね。

Junior Wellsとは「Up In Heah」ってのを作って、それが最初だ。まあ、「Messin' with the kid」が最初のヒットだから、あっちを最初って言ってもいいけど。

私、ちょうど昨日聴いてましたよ。

それからJunior Wellsとは山ほど作ったよ。Ricky Allenともいくつか作ったし、Bobby Blue Blandとも作った。Bobby Blue Blandだぜ。むかしはあいつが俺のバンドで歌ったんだ。お互い始めたころでさ。Johnny Aceもそうだ。五〇年代に自殺しちまった若いやつ。あいつも俺のためにピアノを弾いたんだ。それにB.B.Kingもだ。俺たちはみんなメンフィス、テネシーから始まったんだよ。

ええと、メンフィスに戻ったということですか?

いやいや。音楽を始めたころの話だよ。四九年にメンフィスに行ったんだ。あいつらに会ったのはその頃さ。

なるほど。

南部に行ったのはそれが初めてだったな。それから、何年いたんだったか……

どうして行くことにしたのですか?そういった話があったのですか。

シカゴに来たバンドでギタープレイヤーを探してるのがいたんだ。そのバンドの名前はIke Turnerだ。

ええっ。

そいつとメンフィス、ミシシッピ周りに、フロリダまで一緒にプレイしたんだ。それからメンフィスに戻ってきた。あそこが好きだったし、しばらくいようと決めたんだ。それでBobby Blue BlandとかJunior ParkerとかJohnny Aceと会った。その頃のあいつらはレコードは作ってなかったがね。当時の俺と同じで、クラブで演奏して歌ってたんだ。あいつらの歌もよかったし、連中も俺のギターが好きだったから、俺がみんなを集めてこう言ったんだ。「なあ、お前ら俺とやらないか?」って。「そうだな、一緒にやろう。あんたはこれまで会った中で一番のギター弾きだし。」その頃は今よりギターを弾いてたんだ、若かったし、一緒にやる奴にも事欠かなかったからな。もっとうまかったし指も速く動いたんだ。いまみんながやってる曲も、俺は49年にはやってたし。

本当ですか。

本当だよ。

Sonny Boy Williamsonには会いましたか?

Sonny Boyか。Rice Millerの方ともやったよ。最初のSonny Boyが死んでからSonny Boyになったやつさ。俺は本物のSonny Boy Williamsonともやったことがあるね。

かかわりがあったのですね。

うん、本物のSonny Boy Williamsonの、「Baby Please Don't Go」と「Let Me Play With Your Poodle」でプレイしたよ。

「Play With Your Poodle」、Tampa Redが録音していますね。

ああ、Tampaもやったし、Sonny Boyもやったよね。「Baby Please Don't Go」はSonny Boy Williamsonのレコードだな。聞いたことあるだろ。

Joe Williamsが書いた曲ですよね。

聴いたことあるか知らんが、「Going down in New Orleans and get myself some of those cabbage greens~」なんていう古い曲もあったな。タイトルは忘れたけど。

アーカンソーのヘレナではラジオ局の仕事をしていたんですか?

ヘレナではthe King Biscuit Boyを二年くらいやったよ。

そのバンドのほかのメンバーは誰でしたか?

ヘレナに行ったときはRobert Nighthawkと一緒だった。南部にいる間はいろんなグループと仕事したね。ラジオでやってた時はDudlow Stackhouse、James Peck Curtis――こいつはドラマーだ。King Biscuit Boy、それにRobert Junior。こいつはギター弾きだった。最後にRice Miller。二人目のSonny Boyだ。

二人目のSonny Boyが名乗り始めたときのことを覚えていますか?いつも自称していたのですか、それとも……

マジで、あいつはSonny Boy Williamsonの曲は何でも歌えたんだ。本物が死んでから、あいつが成り代わったんだな。Sonny Boy 二世だね。

しかし、彼がラジオに出て二世を名乗るまで、彼のことは知らなかったのではないですか?

その時は知らなかったよ。自称し始めてから知ったんだ。でも俺は本物の方とも知り合いだった。死ぬ前は一緒にやってたことがあるから。

Big Bill Broonzyなどの人には会ったことがありますか?

いや。古いブルースギター弾きのBig Billは知ってる。それにMemphis Minnie、Muddy Waters、Howlin' Wolfなんかともやってたし、Little Walterとも演奏してたもんだ。なにしろいろんな奴とプレイしてたからな。ご存じの通り。

ええ。Bobo Jenkins(Robert Jenkins)という名前は聞いたことがありますか?

いや、きいたことないね。

彼の出身を知りたいんです。あなたは自分のレコードもたくさん作っていますが、他人の録音にも数多く参加していますよね。

おれの最初のヒットはAgeから出した「Blue Guitar」だ。

Aceレーベルですか?

ああ、Ageだ。

Age?

Age。

シカゴから出したのですか?

そうそう。次にまあまあ売れたのが、Chessから出した「Tanya」と「Put the Shoes on Willie」だ。あれは良いレコードでね。それからはツアーに出るようになったからレコード作りは頭から離れちまったんだ。長いことレコードを出してないのはそういうことだね。

結核にかかっていたと思うのですが、はじめに気づいたのはいつですか?

あー、五年は病院に出入りしてるよ。

相当な激務をこなしていますものね。

ちゃんと休んで、まともな飯を食わなきゃならんよ。巡業に出てると、演奏して、何も食わないなんてことがあるし……

消耗しますよね。

……演奏しちゃ、ずっとハイウェイを走ったりして。そうすると抵抗力が落ちるんだな。それから体重が落ちて、身体を壊したりするわけだ。わかるだろ?

ええ、そういう経験をされて、身体に気を付けるようにしたんですよね。

そうだ。

抵抗力をつけて。大事なことですよね。

今はずいぶん身体が強くなったんだ。手術して悪いところはとっちまったし。でもいつ再発するかはわからないよな。

ええ、お気を付けてください。お身体は大事にしなければ。――この街で、あなたが共演したい、尊敬できるミュージシャンは誰ですか?  たしか、Mooseという名前を出していましたよね。

ああ。Big Mooseな。

Big Moose。

そう。オルガン弾きのな。あいつとは国中で一緒にやったよ。カリフォルニア、テキサスから、どこでもな。シカゴから、合衆国のほとんど全部の州でやったんじゃないかな。全部じゃないけど、かなり多いよ。

彼は、一番のオルガンですかね。

あいつは一番のピアノ弾きだな。一番のオルガン弾きだし、ブルースマンだ。あいつはうまいよ。ほかにもビッグな奴ともやったことあるよ。Louis Jordanとかね。彼とツアーに出たことがある。Sam CookeとかJames Brownともな。

彼とツアーに出たことがあるのですか。

ああ。あいつらとツアーをやったよ。

どうしてやめたのですか。自分のグループが欲しかったからですか?

そうなんだよ。俺はずっと自分のグループが欲しくてね。そしたら自分のやりたいもんがやれるからな。

なるほど。

誰かのためにプレイするってなるとそいつがやってほしいように弾かなきゃならんからね。

ええ、そうすると少し……

うん。

結構つらいですよね。

そう。おれはギターが好きだし、いろんなことがやりたいんだよ。

ええ。本当にあなたは一番素晴らしいギタリストの一人だと思います。でも、ひょっとしたら業界でやっていくには強い歌がないという人もあるかと思います。だから売れるチャンスがないんだと言うような人もいるかもしれません。あなたは当代最高のギタリストですし、インストゥルメンタルの時代が来ることもあるかもしれませんが。

そうだな。

皆が歌を聞きたがるということでしかないとは思うのですが。

ああ。みんな歌が好きだからね。

私は、あなたの声もいいと思いますが、確かに強くはないかもしれません。

まあ、肺の手術をやったから強い声は出ないんだよ。息が切れちまう。そういうことなんだよな。

でも、あなたは……

マジな話、俺はシンガーじゃないけどたまに歌の練習もするよ。毎回自分の歌にはいやになっちまうけどな。

いえ。本当にいい声だと思ってますよ。

俺は歌うと自分が恥ずかしくなるんだ。

そうなんですか?

「いい歌だ」って言ってくれる奴もいるけど。

本当にいい声だと思いますよ。タイミングとフレージングが。レコードにしたらすごくいいと思います。クラブではB.B. Juniorみたいに叫ばなきゃいけないですし、そうでないとなかなか聞こえないのかなと思いますが……

B.B.はシンガーだからね。

ええ、彼はシャウト出来ますね。しかし……

俺は歌も上手くなりたいんだ。あんな感じでできたら自分を恥じることもないんだが。

生涯をかけてやることですからね。

でも音楽で自分を恥じることはないね。

ええ。そうでしょう。

歌はダメだね。

あなたに勝てるギタリストがいるとは思えません。

実際、三十年弾いてるが、ずっとうまいと思うよ。十歳のころからやってるんだ。

そうなんですか。

ああ。

音楽を始めたときから生涯やることになったのですね。

そうさ。おれはいわゆる仕事をしたことがねえんだ。生涯音楽をやってきてる。仕事してたことはない。

楽しんでいるから、仕事とは言わないのですね。

音楽をやるのがおれの仕事、というわけだな。

いい考え方ですね。私も自分の仕事を仕事と思っていないですから。楽しんでやってますからね。あなたの場合は音楽がそうなのだろうなと思います。

そういうことだ。

人生を楽しむということですね。――ところで、あなた自身の音楽というのはどういったものなのでしょうか?

俺はロックンロールをやるのも好きだし、ジャズをやるのも好きだし、ブルースも好きだ。いろんな音楽を少しずつやるのが好きなんだ。全部のタイプの音楽が好きさ。

ええ、それはあなたの音楽が向上してきたことからも明らかです。Robert Nighthawkと一緒に始めたと言っていましたが、ファンキーなものもできますしBB Kingのようにもプレイできますよね。

うん、全部やってみたよ。

あなたはやはりベストなギタリストのうちのひとりですよね。

そうだな、全部やってみるからね。

このことからも、あなたがいかに万能なミュージシャンかわかります。新しいものを聞いて、それを取り込めてしまう。ほとんどの人は一つのグルーヴの中にとどまりますから。

そう、一つのことをやるよね。――俺は音楽が好きで、それだけさ。愛してるんだ。だからいろんなことをやりたくなる。ひとつのことだけやりたくないんだ。ステージに立つごとに変わっていたい。な、俺はいろんなことを一緒にやるんだ。ブルースをやるときもそうだよ、年取った人はブルースをやると喜ぶだろ。おれはビッグ・バンドでも、小さなバンドでもやったことがある。五人編成でもやったなあ。イリノイのカイロってとこにいったとき、ちょうどカリフォルニアからLowell Fulsonのビッグバンドが来てたんだ。去年の話さ。連中と俺たちはすぐ近くのクラブでやっててね。両方でかいクラブだったよ。いいスウィング・バンドで、ジャズをやってたな。

誰とおっしゃいました?

Lowell Fulson。

おお、Lowell Fulsonですか。

そうそう。彼はジャズとブルースをやってて、俺たちもそんな感じだった。ちょっと違ったのは、俺たちはソウル・ミュージックってやつをやってたんだ。終わるころには客はみんなこっちに来ちゃったよ。

本当ですか。

そうさ。みんなあっちに聞きに行って、いい曲もいろいろやってたみたいだけど。こっちに戻ってきちゃったね。ブルースがあるところに。そういうこと。

そうでしょう。みんなフィーリングがあるかどうか、わかりますからね。

おれはMuddy Watersとかと同じショウに出たことがある。うまいジャズ・グループでね。こっちの方がMuddyのバンドよりうまかったけど、みんな本当にいい音楽が好きってわけじゃないんだ。Muddy Watersはブルースをやって、ショウをもってっちまった。

ええ。

どこに行っても、ジャズをやってるんだと全然儲かんないんだ。「よし、じゃあ戻って、ブルースをやるか」って、ブルースのグループを作ったら金が入るようになった。それからもうちょっとブルースをやるようになったんだ。

ミュージシャンは時間を音楽を聴くのに費やすことで成長していきますが、聞きに来る人はそういう時間がありません。だから子どものころ聞いた音楽に固執してしまう。そこが問題かもしれませんね。

そうだな。

そうなると、ジャズ・プレイヤーが何をしているのかわからないということになりますよね。

いやあ本当にそうだよ。

そこが本当に問題だと思います。ミュージシャンは進歩していくための時間を取れますが、人々は生まれ育ったころに聞いた音楽をその後の人生のほとんどで聞いていくことになります。

そうだね。そのわりに、みんなわかるフリはするんだよ。前にやったとこではみんな「ジャズが好きなんです」って顔をしてたよ。「さて、じゃあどんなものか見てみようじゃないか」ってことで、ジャズをやったけど誰も踊らなかった。手は叩くけど、ただ聞いてるだけ。で、「セットを変えましょう」って言って、二曲ブルースをやったら全員ダンスフロアに出てきて、ゆっくり踊っては足踏みなんかしだしたよ。つまりみんなこっちが好きだってことだ。ジャズが好きだってふりはしてるけど、ブルースをやりだしたらみんな出てきて踊りだす。本当に好きなのはどっちか、それでわかるってことだ。

本当の好みは……

そう。ほんとのお好みはね。そういうわけだ。

本当にハマっているかでわかるわけですね。おっしゃる通りです。

そう。そこで、いまだに混乱することがあるよ。

多くのミュージシャンは観客が変わらないので、悩んでいるのではないでしょうか?

そうだよ。

みんな子どものころきいたスタイルのものを聴き続けますし、ミュージシャンはもうそれに疲れていますよね。

その通り。だからときどきは俺も本当にいい音楽をやってみるんだけど、みんなちゃんと聴きはしない。それでもっとラフ(raggedly)に、うまくやってやるとみんな気に入るんだ。そういうこと。

そうでしょうね。どういうお客の前でやるのが一番楽しいですか? すごくうまくいったときのことを覚えていますか?

前にいとこのJoe Hintonとテキサスのヒューストンに行った。そこで一緒にやったのはほんと楽しかったよ。5000人くらいが見にきてね。たくさん客がいるならどんなクラブでやるのも好きさ。そういうところでは本当にソウルがこもるよ。はまるってやつだね。そういうのが好きだ。客がみんなハッピーになってるのを見ると、俺のすべてが出てくるんだ。客を満足させるために、俺がギターから取り出せるすべてをね。

クラブであなたを見に行ったとき気づきましたが、そういうフィーリングをスタジオで出すのは困難ですよね。

そうだね。

大きな問題ですね。

実際スタジオでやってるあいだは、同じフィーリングでやろうとしてるんだけどね。

ええ。複製するのは難しいことだと思います。いつでもいい気分でやれるとは限りませんし。

そうなんだ。いつでもっていうのは無理さ。

Joe Hintonとやったときはギターを弾いたのですか?それともピアノを?

いや、俺はギターで、バンドも連れて行ったよ。ヒューストンを出てアイオワのウォータールーでやったときもそうでね。そこではヒルビリーをやらされたよ。
そうなんですか?
ヒルビリー・ジョイントに行ったらヒルビリーの連中がやってたんで、「俺も入れて一曲やらせてくれよ」って言ったんだ。「ロックンロールをやるんじゃないのか?」って言われたがね。それで、「俺はロックンロールもやれるけどあんたがやってるようなのも少しはできるんだ」っていったら、「こういう古いヒルビリーがやれるんだったらやってもいいぜ」ということで、バンドスタンドに呼んでくれたんだ。みんな俺を見て「なんだこりゃ、おいおい気になるぜ」って言ったよ。わかるだろ、カラード・ボーイがヒルビリー・ジョイントでヒルビリーをやりだすんだから。

ええ、かなりタフなことですよね。

ステージに上がって「Walking the Floor Over You」とか、Hank Williamsの古いレコードとか、「Cheating Heart」とか、そういうので俺が歌えるやつをやったんだ。

ほう。

そういうのも歌えるんだ。な、子供の時にはGene Autryとかが映画で歌ったりギターを弾いたりするのを見てたから。彼が俺のお気に入りのカウボーイなんだよ。あとRoy Rogersも。彼らが古いウェスタン・ソングをやるのが好きだったんだ。それでウェスタン・ミュージックをやろうと思ったのさ。

―なるほど。あなたはいつだってブルースだけじゃないミュージシャンだったのですね。

そうそう。

あなたが言ったように、ブルースはとてもラフな音楽ですからね。でも、全部いい音楽ですよね。

そのウォータールーのジョイントでやったわけだ。ある男は俺のプレイを気に入ってね。「あんた、ここで見た一番のギターだぜ」ってね。俺が「ギターを弾かせてくれないか」って言ったやつだ。そいつは俺に彼のバンドの仕事をくれたから、俺はヒルビリーをやってたんだ。

どのくらいの期間やったのですか?

半年はいたね。

なんと、半年もいたんですか。

ああ。一つのクラブで、毎晩やってたよ。

すごいですね。長い時間です。

それからそいつらとヒルビリーをいくつか録ったよ。

それが下さった、「Walking the Floor Over You」ですか?

ああ。

そのバンドが入ってるんですか?

そうだ。そのバンドがやってるよ。一緒にやったやつらな。俺がやってほしいようにやってもらったし、ロックンロールのやり方も少しは教えてやったよ。だからね、これは大きな出来事だったんだ。
彼らも感謝したことでしょう。あなたのようなプレイヤーは聞いたことがなかったでしょうし。
ああ。気に入ってくれたよ。俺のいとこにFreddieっていうスティールギター弾きがいるんだけど、そいつに「Steel Guitar Rag」とかをやらせてね。みんなそれも気に入ったよ。

その人とも一緒に?

そうだ、Freddieな。スティールギターのやつさ。

あなたのいとこなんですね?

そう。

あなたはJohn Lee Hookerとも親戚ですか?

John Lee Hookerも俺のいとこだよ。

母方のいとこですか?

父方だ。

そうなんですね。

ああ。

すごい……。

ああ、John Lee Hookerさ。Hooker一族とはずっと付き合いがあるけど、カンサス・シティにはもっとたくさんHooker家のやつがいるんだよ。カンサス・シティのナインティ・ナイン・ホールに行ってやったことがある。だいたい六百人くらいいたけど、その半分がHooker家だったよ。クラブのオーナーは言ってたね。「こんなにHookerってやつをたくさん見たことないよ」ってね。信じられない、って。

どこから集まったのですか?

みんなカンサス・シティだ。そこに住んでるんだ。

本当ですか?

ああ。国中にいるよ。カリフォルニアにも何人かいるし、南部にもね。

みなミシシッピから出てくるのですか?

そうさ。ミシシッピからね。

なんということでしょう……。

みんなミシシッピのヴァンス(Vance)とかクラークスデイル、それにタットワイラー(Tutwiler)あたりで育ったのさ。みんなそのへんだよ。

ミシシッピに戻ってプレイしたことはありますか? メンフィスにいたころ、クラークスデイルに行ったことはありますか?

ああ。ちょうど三か月まえに行ったよ。七月に。

そうなんですね。

七月の四日に行ったね。

どこに行ったのですか?

ミシシッピのグリーンヴィル(Greenville)、エルクス(Elks)・クラブってとこだ。

そのあたりにはジョイントが全然ないものだと思っていましたが……

いやいや。たくさんあるよ。

本当ですか?見たことがないです。

ああ。たくさんあるよ。あのへんにあるのはブギー・ジューキー(boogie jookie)ジョイントのたぐいでね。田舎っぽいやつだよ。

そうそう見つけられなさそうです。

そこでみんな楽しむわけさ。ジューク・ハウスって呼ばれてるね。

ジューク・ハウス。

そんな感じの家なんだ。みんな集まってくるのさ。有名なやつとかうまいやつの時はやっぱり集まってくるよ。

そのあたりのジョイントで「こいつはうまいな」という人を思い出せますか? また、そのあたりで今もやっている人の名前を聞いてもいいですか?

いいバンドがいくつかいたよ。すごくいいのがね。サウスに行けばどこにもいいバンドがいるもんだ。シカゴよりいいのがいるよ。マジで。シカゴにいるうまいやつもみんなサウスから来てるんだから。

それはそうですね。

あっちに行ったとき、九人とか十人のバンドを見たよ。そんなにたくさんにどうやってギャラを払ってんだって思うけど、でもうまかったんだ。みんなサウスからいい音楽が出てくるんだ。いわゆるソウル・ミュージックがね。そういうこと。

ええ、みなフィーリングがあるんでしょう。そこでは。

一番ぶっ飛ばされたくらいすごかったのは、Little BBと本物のBBが一緒に歌ってた時だな。

二人が一緒にやるのを聴いたのですか?

ああ。そのとき俺はギターを弾いててね。そうそう、ちょうど一週間前だよ。スピアーでプレイしてたんだ。ザ・バーニング・スピアーで。

バーニング・スピアー?

そうだ。そこに行ってショウをやったときBB Kingもいてね。あいつは俺を知ってるから、呼んでくれたんだ。Little BBってのはおれのシンガーだ。俺たちがステージに上がったらもう、ショウは俺たちのものだったよ。BB Kingは言った。「さあ、レディース・アンド・ジェントルメン、Earl Hookerです。私と彼は一緒に音楽を始めたんですよ。こいつは私が聞いた中でベスト・ブルース・ギター・プレイヤーでしてね。彼のスライドが好きなんです。もう私のすることはありません。Earl Hookerがギターは全部弾いてしましましたし、Little BBが全部歌ってしまいました。そういうことです」と。おれはBBが好きだよ。あいつも俺のことが好きだし。

いい人みたいですよね。

そうさ。

みんな言いますね。

あいつはいいギター弾きだ。おれはあいつの弾き方が好きだし、向こうもさ。

ええ。もう少し聞きたいことが……

なんかあるかい?

そうですね。あなたは本当にあらゆる人と演奏したと思います。たとえばJames BrownやJoe Hintonとプレイしたといっていましたね。

ああ。みんなとプレイしたよ。

Ike Turnerとも旅したのですか? サウスに巡業で?

ああ。Ike Turnerとも仕事したよ。Ike Turnerと俺がバンドスタンドの前で写ってる写真もあるよ。

King Recordでの録音はどういうきっかけですることになったのですか? 最初の一枚です。向こうから会いに来たんですか?

いや。スカウトがあったんだ。

なるほど。

フロリダのブラデントン(?)に行ったんだ。演奏しにね。そいつが来て、俺のプレイを聴いて「レコードを作る気はないかね?」というんで、「そりゃ最高だね」と返したんだ。俺のグループが気に入ったらしくて、その日のうちにそのグループで録音したよ。

フロリダでのことですか?

フロリダだ。何やらコンパクトな録音機材を持ち歩いててね。

そうだったんですか。

その場で録音して、どっかに持ち帰ったよ。オハイオだかどこだかへね。それから何枚かレコードを送ってきた。相当売れたよ。

一番いい録り方だったかもしれませんね。私もそうやって録音するのが好きです。そういうところで録音するとフィーリングが入りますから。

そういうことだ。

今では難しくなってきました。当時、あなたのバンドメンバーは今ほど多くなかったと思いますがどうですか?

6人いたよ。

6人もいたんですか?

ああ。いつだって5人か6人でやってきたよ。クラブによっちゃトリオが一番いいけどね。実際。ダンスだけを演奏するときなんかは。おれはいくつか酒場で演奏したこともある。ほとんどはロードに出てるわけだけど。少なくとも5,6人はいないとだめだね。

ええ。かなり消耗しそうです。

なあ。だってみんな入ってきて、入り口で2ドルか3ドル払って3ピースのバンドを見るだろ、そしたら言い出すよ。「ほかのメンバーはどこにいるんだ?」ってね。そういうことだ。ベース、ドラム、ギター、っていう3ピースでやるにはそういう問題があるんだ。みんな俺はバンドを持ってないって思っちまうし。だからマネジャーがオルガンと、ホーン二人を入れてくれたよ。そしたらもう問題ないね。<了>

コメント

このブログの人気の投稿

翻訳:James Brown Taught Bootsy Collins To Play On The One(2010)

James Brownに「出来てない」とか、「お前は弾きすぎだ」とか言われてたことを覚えてるよ。 でも弾きすぎてたわけじゃないんだよ。ただ、Oneをプレイしてなかったんだ。 Oneをプレイしてないなんて俺自身は気づいてなかったんだけどな。バッチリだと思ってたぜ。(笑) でもJBは、「ああ、もう、お前な…ダメだ。」(マネしながら)俺はどこに行ったって、みんなに「お前、やべーよ!」って言われてたのにだぜ。 その当時のベースっていうのはこういう感じだったからな。(実演:3:35~。2・4の指パッチンをちゃんと聴いておきたい) なんてことないだろ?だから俺はいろいろほかのこともプレイしてたんだよ。 でもJBは「ああ~!!全く!! Give me the one!! oneをよこせ!oneを寄越せばほかに何やってもいいから!!」というんだ。 それで俺はわかりはじめたよ。「ああ。oneがあればほかのことやってもgreatになるのか。」 「そうだよ。oneを寄越せ。そうしたら全部良くなる。」 それで(oneを使ったプレイを)始めたわけだけど、それがきっかけだったんだ。James Brownこそが、最初に俺に「Son,you need to give me the one.」と言った人だったんだ。 彼が自分の言っていることをわかってたとは思ってないがね。意味は分かってても、そのパワーまでは知らなかったと思う。 oneは俺の人生まで変えちまったよ。oneがわかって、始まったんだ。それからParliamentやFunkadelicにもoneを持ち込んだよ。ファンクっていうのはoneなんだよ。 Source:  https://youtu.be/1WWDWdo0E4Y

翻訳:Fred Below インタビュー

プロのドラマーとして活動し始めた時の背景を教えてください。  40年代の初めごろ、DuSable高校に通っていた時、Johnny GriffinやEugene Wright(のち、The Dave Brubeck Quartet)とよく演っていたんだ。 同じ学校に通っていたからね。その時はトロンボーンを始めたのだけど、あまり向いていなかったからドラムに転向したんだ。  私の若いころ―というかもっと小さいころ、まさしく音楽に囲まれて育ったよ。30年代の初めごろは、子どもながらにVendomeやRegal TheaterやMetropolitanみたいなところに通っては、最高の黒人ビッグバンドを観たものだった。彼らはよくシカゴに来ていたからね。 高校に入るときに、Chick WebbとGene Krupaを観てドラムにすごく興味を持ったんだ。Cab Calloway と Billy Eckstineのバンドも観に行った。彼らは本当に俺を目覚めさせたね。 ドラムはArt Blakeyでしたよね?  そう。Art Blakey。まったくEckstineは凄い奴らを大勢抱えていた。彼らを聴いているとやろうという気持ちになったし、さらに興味も沸いていった。 俺は幸運にもそれぞれのメンバーを観て聴くことができたものだけど、なかなか今どきあんなバンドは見れるもんじゃないよね。Regalなんかに行っては、2、3回分のショウをぶっ続けで観たりしたよ。  今でも思い出すけど、私が卒業する直前にBilly Eckstineを見に行った時、彼は自分のビッグバンドを解散してソロになる直前だったんだ。 それはシカゴ公演最終日だったから、DuSable、PhilipsやEngwood高校の生徒が劇場に詰めかけていた。Billy Eckstineがステージに上ったとき、彼らは演奏を止めた。照明がついてみると、劇場は子供で満杯だったよ。子供を追い出すために3校の教師まで来ていたくらいでね。なかなかとんでもないことだったね!ビバップ前夜の話さ。(この段落自信なし) Chick Webbを観たときあなたは何歳だったのでしょうか?  10歳は超えていなかったね。 観て、感銘は受けたのでしょうか?  うーん、まだ音楽をやることに興味は持たなかったと思うけど、好きだったね。やっぱりBilly Eckstineに...

翻訳:Alabama Jr. Pettis(Daddy Rabbit) バイオグラフィ

生:一九三五年 没:一九八八年 四月 熱心なブルースファンなら、Alabama Jr.(Daddy Rabbit) Pettisの名はMagic Slim & The Teardropsに七三年から八三年の十年にわたって在籍したメンバーとして記憶しているだろう。Alabama Jr.はTeardropsのかすがいとして、Magic Slimのドライヴするギターと、Nick Holtの脈動するベースを、ていねいなバッキングでつなぎとめていた。Coleman Pettis Jr.(彼の本名である)は三〇年代半ばにアラバマで生まれた。八歳のとき母にギターを教えられ、子供時代は練習したりしなかったりする日々がつづいたという。手頃なギターがなかったとき、かれは長い棒に荷造り紐の両端を結びつけて、とにかく音を鳴らしていた。十代になる頃には、フィッシュ・フライの店で演奏するようになった。最初はソロで、それからもう一人のギタリストを加えてデュオで演奏し始めた。一晩で合わせて五ドルの稼ぎだった。一九五二年、彼はシカゴに移住した。そこで彼は最終的に「シカゴ・ブルース」の基礎を作り上げる、数々の素晴らしいミュージシャンと出会い、共に演奏するようになった。シカゴに到着したとき、Alabama Jr.は熱心にクラブに通った。もっとも熱いブルースが演奏される場所を見つけたらすぐに赴き、ただ聴くために。一九五六年まで、彼はLittle Walterのバックでベースを弾いていた。サウスサイドのたくさんのクラブで。そしてジョリエットでも一、二軒演奏する場所があった。Jr.が行っていたクラブの一つにTurner’s Loungeがある。彼がLee Jackson、Big Walter Horton、J.B. Hutto、Hayes Wareなどとともに演奏したところだ。Lee JacksonはJr.の大きな影響源となった。彼を励まして、ギターを続けさせたからだ。Little Walterのベーシストとしての期間を終え、彼はLee Jacksonのバンドで三年間リズム・ギターを弾いた。Tony's Blue Loungeという小さなクラブで。彼のおかげで、一九七三年には、Jr.は確かなギターの経験を積むことができていた。J.B. HuttoのDelmarkでの最初のレコーディング、「Ha...