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John Littlejohn インタビュー


あなたのバックグラウンドについて少し教えてください。どこから来たのか、というところから始めましょう。誕生日はいつですか?

一九三一年の四月十六日。

生まれは……

ミシシッピのジャクソンだ。

両親が音楽をやっていたか、覚えていますか?

うーん、家族は誰もやっていなかったね。

演奏したいと思うきっかけになった出来事は覚えていますか。

覚えてるよ。フィッシュ・フライを食べに行ったときに――電灯がなくてランプを使ってた時代さ――聞いたんだ。たしかHenry Martinってやつだったかな。そのギターが良い音しててね。それが耳に入ってきたんだよ。

ジャクソンでのことですか?

フィッシュ・フライ屋はたぶんジャクソンじゃなかったと思うなあ。

田舎ではなく?

ああ。田舎じゃなかったねえ。ミシシッピのレイモンドってとこだったか。ジャクソンからもそう遠くないよ。

両親は農場で働いていたのですか。

ああ。

小作人(sharecropper)だったのでしょうか?

いや。Allen McNairって白人の下で働いてたんだ。

プランテーションのオーナーですか?

そうだ。デカい苗畑を持っててね。綿、トウモロコシ、何でもやってたよ。でかいクルミの森もあって。わかるかい、外に出ると、クルミとか桃がなってる下なんだ。そうしてると、いろんな音が聞こえてくる。鳥とかな。ギターの話に戻ると、おれはそんな音は聴いたことがなかったんだ。その日からきょうまで、音楽はいろいろ聞いてきたけど、いまだにそんな音は二度と聞いたことがないね。

彼はスライドを弾いていたのでしょうか?

スライドは使ってなかったね。俺とか、あんたとか、俺の親父が生まれるより前の音楽だったんだ。でも今じゃ、誰もあの音を知らないだろうね。彼は死んじまったし、今じゃ誰もあんな音は出せやしない。でも俺は何時だって覚えてるんだ。あの音をね。

大体何歳の頃でしょうか?

おれが十一か十二の年だね。

十代のことで、何の曲だったかを思いだすのは難しいと思いますが……覚えていますか?

一曲よくあるやつをやってたね。何だっけな……教えたいんだけど。なにしろむかしだからな。一曲覚えてはいるんだけど、最初に「Mama, don't you tear my clothes」って歌ってたことしか思い出せない。

「You can push and pull all night long」

そうそう。それだ。

驚きです。

それをやってたのは覚えてるよ。なにしろたくさんやってたからね。フィッシュ・サンドイッチを食いながら観てたわけだ。わかるね。

ギター弾きだったのでしょうか?

ああ、Henry Martinてやつで、俺の親父とおふくろと一緒に育ったんだよ。

なるほど。

でも、やってた曲は彼がずっと若い時の歌で、相当古いと思うよ。

その頃はそのあたりの学校に行っていましたか? あるいは、働きながら学校に行くチャンスはありましたか?

いや。本当になかった。おれはシティ・ボーイじゃなかったからね。仕事があるから。


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