Hubert Sumlin Interview 2

――どんなふうに音楽を始めたのですか。


 初めてのギターを手にしたのが8歳の時だ。俺の兄貴はすでに、壁に一本弦を張っていた(diddley-bow)がね。その弦と、瓶でもってスライドをしていたんだ。瓶を滑らせることでキーを変えていたんだね。おれはそれを見ていて、「そうだ! こいつをもっとよくできるぞ」って言って、もう一本弦を張ってやったんだ。利口な奴だっていわれたよ。彼はその弦と格闘しはじめた。おれは、「俺も練習して、二本とも弾けるようになるぞ」って自分にいったわけだ。兄貴はさらに弦を増やして、五本になったけど、六本弦にはまだならなかった! それで母さんが町に行って、俺たち二人ともギターをやることになるってわかったんだ。母には兄貴がうまくならないってわかってたみたいでね、兄貴は俺が一本目の弦を切っちまったんで怒っていて。それで、母は俺にギターを買ってくれたんだ。一週間分の給料だったよ。彼女はうちの田舎から4マイル離れた葬儀屋で働いていて、週8ドル稼いでいた。だもんで、来週は何を食ったらいいんだかってことになったんだけど、まあなんとかなった。そのギターは12年くらいちゃんと持っていたよ。弾けないくらい状態が悪くなるまでは。あのころのギターってのは、今のよりいい音がするのがあったように思うね。嘘じゃないよ。


――どこで育ちましたか?


 Mississsipi。Greenwoodで生まれて、Arkansasで育った。8歳の時にMississippiを出たし、ギターも手に入れてたわけだ。引っ越してある日学校に行ったら、James Cottonに出会った。それで友達になった。あいつが音楽を始めようとがんばりだした時、おれはすでにやってた。俺もあいつも、俺って大した奴だって思ってたね! あいつはハープで何もできなかったけどがんばってた。最終的に吹けるようになったんだ。やつはミュージシャンをみんな知ってて、例えばBobby ”Blue”BlandとやってたPat Hareだとか。やつが出向いてPatと、ピアノ弾きと、ドラマーと知り合って、俺たちは金曜の夜に一緒にhonky-tonkをやるようになった。土曜の夜と日曜はみんな休まなきゃいけなかった、仕事に戻らなきゃいけないわけだからな。俺たちがやってると時々客がケンカを始めることがあって、そういう時は出て行ったんだ。連中は1セントとか10セントの小銭をくれてたよ。


――当時はどんな音楽をやったのですか。

 古いやつだ。Cottonが知ってるのを何でも。Muddy、Wolf、そういった人たちみんな。あるとき15分ラジオで演奏したことがあって、そしたらWolfがやってきて今度は30分演奏させてもらった。West MemphisのKWMって局だったはずだな。WolfはKWMに出てたんだ。Wolfは食べ物を売ってて、その店の宣伝もやってた。彼はCottonにラジオに出たいかって聞いた。それで俺たちは彼のバックで15分演奏させてもらったってわけ。


――彼は当時から評判だったのですか。

 すごく人気だったよ。みんな彼のことが大好きでね。すごく荒っぽく歌って……Muddyみたいにさ。それで俺たち、つまり俺、Cotton、Pat Hareは15分出たんで、小銭を投げてくれる人も増えてね。十代の間はCottonとやってたよ。そしたらある日Wolfがやってきて、Cottonに訊いた。「今のバンドはやめてChicagoに行こうと思うんだが……あのHubertって奴を連れていけないか? いまのバンドはあれもこれも反対でな」って。俺は信じなかった。だけど、二週間後にまた送ってきて、俺と彼の奥さんを呼んできたんだ。俺はCottonに、「お前を置いていけない」といったんだが、あいつは「Wolfと行きな。あの人とならもっと金を稼げるよ」と返してきた。俺たちは一緒に育って、兄弟みたいなもんだった。で、Wolfと一緒になったんだ。


 でもそのあと、俺はWolfのバンドを抜けた。若さってやつだな、わかるだろ。いきなり街のでかい明かりに照らされて、あれもこれも目にすると……。Muddyに3倍払うって言われたんだよ。そしたらWolfは「だったら行け! 俺が連れてきたんだ! おまえは戻ってくる!」って。Muddyについて行くと、彼は「街を出て演奏しに行くが、おまえ十分に服持ってるか?」と聞くんだ。俺はカバンの中にスーツを一着入れていた。それがWolfの指定だったからだ。するとMuddyは、「あのな、俺たちは四十一晩演奏するんだぞ」という。「ええ!? 聞いてないよ!」で、俺はもうWolfのもとに戻ることにした。ツアーで街を出てもいないうちからさ。一回のギグもしなかった。Wolfに電話したけど、彼は「お前の気持ちが固まるまで戻ってくるな」というんだ。俺に学ばせたかったんだな、あの人は。Muddyとのギグは一千マイルも離れたところでだったりした。次の晩にはそっちに行かなきゃならない。俺はそれもやったけど、戻ってきてから、Wolfに電話したよ。「ヘイ、マン。戻るぜ」って。その日にクラブでの演奏があったから、Muddyのバンドを抜けたその晩に入ったんだ。Muddyは怒って叫んでたけど(cry:泣いた??)、Wolfは「くだらねえことするな。こいつは俺が連れてきた奴だ。お前にはこんなに付き合いの長いギター弾きはいないだろう」と言っていた。あんまりあの人たちは口論てのはしなかった。お互いの話をちゃんと聞いてたよ。どっちも伝説的な男だから。


――MuddyとWolfの間でかなりのライバル関係があったのでしょうか。

 あったさ。お互いが、相手をぶっ飛ばせると思ってる。そういう感じだったな。何年も。それからしばらくたって、70年代の最後のAnn Arbor Blues Festivalで、それまで見たこともなかったことが起きた。どっちも体調が悪かったふたりが、一緒に座って、お互いのことを抱きしめあったんだ。それで二人で話そうと俺たちを追っ払った。それが和解のときだったんだ。あの人たちが二人でいるところなんて見たことがなかった。なんていうか、同窓会っていうか、仲直りっていうか。子供みたいだったね。お互いに二十年、三十年と会わなかったら、もう一生会わなかったようなものじゃないか。ふたりはビールを飲んで、ハグを交わして、泣いていたよ。バンドはみんな出ていかせてね。それからというもの、二人が顔を合わせるときが一番緊張したな。


 おれは半分はWolfのバンドに入るために音楽を学ばなければならなかったが、しかし俺の身に起きたことを、俺は神様に感謝してるよ。


――Memphisの音楽シーンは、Chicagoでのそれと大きく異なりましたか。


 Chicagoの音楽のほうがより良くサウンドしていたし、誠実だったと思う。それでもそれは、Bluesだった。Bluesってのはそんなに新しくなっていくようなものじゃないんだ。「そりゃBluesじゃない、Jazzyすぎるよ」ってなことでな。New Orleans、Tennessee、Arkansasで、その伝統は始まったけど――俺たちは誰とも違うサウンドを持っていたよ。Chicagoに行ったとき、New Orleansからきた奴、Mississippiからの奴、Southからの奴、みんなが同じ場所に集っていた。皆違うやり方をしていた。あいつが二つコードを持っていれば別の奴はまたふたつコードをっていうぐあいに。俺がスタイルをものにするにはけっこうかかったが、でもたくさん学ぶことができたね、すべての種類のBluesを演奏することで。喜びのBlues、悲しいBlues。


――ということは、あなたのスタイルはChicagoに来て大きく変わったのですか?

 もちろんそうさ。自分でもわかってる。変わらなきゃおかしい。しかし最近は、みんな変えようとしすぎるね。ほんとうのところっていうのは一つしかない。自分のものをやる、ってことしかね。おれはCharlie Pattonも聴いたが、自分が始める前に彼は亡くなってしまっていた。でもMuddyとWolfは彼や、そういう昔の人をみんな見てきてるからね。俺がChicagoに来たのは、本物のほうのSonny Boy Williamsonが死ぬ直前のことだった。俺のいとこは彼が殺されるその晩にいっしょにやってたんだ。二週間の差でおれは彼を見ることができなかった。あんまり多くのそういった人に会う機会には恵まれなかったけど、俺は彼らのことを知ってたし、本でも読んだし、ゴミ捨て場で彼らのレコードを拾って聴いてた。みんな音飛びしていたけど、でも何をやっているのかは理解できた。

 

――Wolfと曲を作るときはどのようにしていたのですか?

 たくさんの人がそれを訊いてくるけどね、シンプルだったよ。まあ、俺にとってはね。座って、話して、やってみる。Wolfが持ってきた曲をあの声で歌って、俺はそれに合わせて弾く。彼はそれで続ける。彼はそれをやるチャンスを与えてくれていた。「なあ、お前はこれやってくれ、うまくいくだろう」「こんな曲があるからやってみよう」俺と、Wolfのふたりだけだ。そうやってWolfにレコーディングの準備ができるまでは、バンドはその場にすらいないよ。俺とWolfと、Willie Dixon。Willie Dixonがいるときは一緒にやったけど、でもWillie Dixonは音楽に何も入れてやしないよ! 俺が、レコードに音楽を(伴奏を?)入れてたんだ。それを誇りに思ってる。彼(Wolf)はそうさせてくれた。いまのミュージシャンはスタジオに入って何か月もこもってたりするみたいだが、俺たちは一か月で、200もの違うやり方を試していたんだよ。そうやって一番良いサウンド、つまり曲に合う。そしてみんなに一番ウケるやり方を見つけたんだ。そうやってやった。難しくなかったよ。


――レコーディング以外では、Wolfとどう仲良くなったのですか?

 いいね。まあ、俺たちは口論もしたし、俺は都会に出てきた若者だった。WalterやMuddyのことも聞いてたがWolfがすごいってことはわかってた。俺は十歳の時に会いに行って、演奏を始めた。あの人と二十三年半も一緒に過ごすことができたのが本当にうれしいよ。いってしまったなんて信じられないけど、でも、そうなんだ。今はね。


――魂は、消えていませんよね。

 その通り。魂まで消えちゃいない。


――イギリスの大物ロックスターがあなたたちの音楽について言い始めて、そして一緒に演奏もしましたが、どう感じましたか?


 別に状況は大きくは変わらなかったよ。絶望的だ、と思っていたよ。本当にだ。あいつらは俺がやっていたリフをそのままやっていただけだった。London Sessionsをやったとき、彼ら(会社)は俺を呼ぼうとしなかった。あのアメリカのレコード会社は、ただWolfと、Eric Claptonと、そんな感じの連中でやりたかったんだ。だから俺のことは放っておこうとしていた。Ericがそいつらに電報を送って、俺が来ないなら彼もやらないって宣言した。だから、会社の連中は俺に「おい、荷造りしてくれ――行ってもらうから!」といった。それでやった。Wolfはもう病気が重くて、毎日毎晩医者を連れていた。本当に調子が悪かったし、レコーディングには二週間しかなかった。でも俺たちは八日で録った。二晩は何もしなかった夜もあった、あまりに彼の体調がよくなかったから。でも一緒にやり遂げた。


――あなたとWolfはJimi Hendrixとも会っていますよね、彼の印象は?

 俺が思うに、Wolfも俺と同じくらい彼には感心していたよ。俺たちはLiverpoolで演奏したんだけど、そのガレージについたとき、連中がリハーサルしていた。その夜Jimi Hendrixは真ん中であの演奏をやった。ワオ! Wolfも観て、おっかながっていたね。彼は俺とギターを弾きたがって、「かしこまりました、Mr. Wolf」という感じだった。そしたら歯でギターを弾き始めるんだもの。俺はWolfを見て、「ありゃ、俺はクビか」って思ったね。Wolfは俺に、「ありゃ大物になるな」といった。New Yorkに戻ったときショウをやったらJimi Hendrixがやってきた。彼はExperienceとの一枚目のレコードを出したところだった。Wolfが道を空けてやって、またステージに上がっていったよ。


――彼の演奏スタイルについてどう思いましたか?

 あれはなんでも弾きたいっていう奴だったね。たぶん俺たちの曲も何曲もとってるはずだね。思うに、彼がいまも生きていたとして、どんなスタイルになっていたかはわからない。あの当時の彼よりすごくなっていたということはないと思うね。彼は、自分ができることっていうのを見つけて――あるいはその一部を見つけたんだろう。彼が達成したかったことの頂点まで行ってしまって、で、死んでしまった。若くして死んでしまうっていうのは悲しいことだよ。たくさんのミュージシャンがそんな風にして死んでいった。俺の隣に住んでいたMagic Samだってそうだ。でも人生は続いていく。年寄りは、みんなができなかったものを代わりに伝えるしかないんだ。それが俺の仕事だよ! だから、若い奴が俺に教えてくれと言ってきたら教えてやるんだ。少しだけど。連中は聴く。誰かはやるだろう。


――たくさんの音楽ジャンルは一過性のものですが、Bluesはずっと我々とともにあります。なぜだと思いますか?

 わからないな。俺の考え方では、Bluesはここにあるだろう。「Bluesは死ぬ」と言われてきたし、「Bluesはこうなる」なんてのも言われてきた。でもやめない限りはあるんだ。人々はBluesを生きるし、若者でさえそうだよ。年寄りは残せるものを残す、そうしたら子どもたちがそれを見つけるだろう。


――Wolfが亡くなってから、どういうことをしていましたか?

 Wolfが死んでからは、三か月(演奏を)やめていた。まだやりたいのか、どうなのか決心がつかなかった。ある夜にベッドで横になって考えていた。「こんなことはしてられない、Wolfは俺に演奏してほしいだろ」それに、好きなものはやるもんだろ。だからここにいるのさ!


――そのころからあなたのスタイルは変わりましたか?

 それだよ、言いたいのは。俺が言おうとしてたのはそういうこと。思うに、みんな自分のスタイルってものがある。物語を伝えたいのだったら、正しく言いたいのだったら、その物語を生きなきゃならない。それが俺が思う、Wolfがやったことで、またMuddyがやったことだ。彼らは生きたんだ、自分が歌ったこと、自分が言ったことを。それを生きなきゃいけないんだよ。俺もそうしてきたし、みんな見てそうとわかっているだろう。今日ここで人々の前に立って演奏するのもそういうことだ。ちょっと速くしたり、ちょっと上品にしたりすることはあるよ、でも結局は、「Bluesをやっているか、やっていないか」なんだ。


――将来に向けて計画はありますか。

 もっとCDを作るつもりだ。一枚を一日で。神様が俺に力を与えてくださっている限りはね。俺はたくさんの人を幸せにして、俺のやることをやるんだよ。今がその時だってわかっている。若い奴らにも起こることさ。「ああ、お前は弾き方はわかってるけど、人生ってものをわかってないな」Wolfが言っていたことさ。わかるぜ!


――いまツアーは多くやっていますか?

 FloridaからCarribbeanまで、Blues Cruiseをやったところさ。GatemouthとKoko Taylorが一緒にいたね。あの船はもう、揺れてねえ!


――特別な思い入れのある曲はありますか。

 「Goin' Down Slow」はヒットになるってわかっていた。「Shake It For Me」もヒットだと知っていた。「I Should Have Quit You」もそうだ。全部そうだよ。「Smokestack Lightning」も売れるだろうってわかってたよ。知ってたんだ。つまり、それを「感じた」んだ。Wolfは、「なあ、これは何か起きるぜ」といった。俺はそういう時、「俺もそう思うよ」って言ってた。それは、俺がそこに音楽を吹き込んだからってだけじゃない。それ(曲)は、それそのものにたくさんのものがこもっていたんだ。そういうこと。彼が今も生きてて今日歌うとしたら、俺は「歌ってくれ、弾くから」と言うだろう。そういうのが特別な瞬間なんだ。俺が録音するとき、今日のライブでやる曲をやったりもする。同じ曲を。でももっと深くなるし、長くはならないよ。長いことやってるが、しかしちゃんとしたバンドをつけなくてはなあ。大変だよ。とても。みんな自分のやりたいことがあるから。


――Wolf以外で、あなたの音楽に一番大きな影響を与えたのは誰ですか。

 いろんな人が好きなんだよ。特に女のミュージシャンとかも。成功するだろうってことをやってる人とかね。あんまりそういうことを考えたときに女のミュージシャンは挙がらないものだが。なかなか本当のところは言わないものだよね。ひとかどの人物になるだろうって人もいるよ。Ma Rainyみたいにね。彼女の曲のうちいくつかは、俺の見た中でもベストの一つだよ。俺のレコードにも入れるつもりだ。ショウでもたくさんやるよ。

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