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Brewer Phillips Interview(断片)

 前にBrewer Phillipsの8ページくらいのインタビューを読んだ時の覚書。


Brewerの父は郡の高官のもとで働いていて、その高官は労働者の黒人が食べるに充分なくらいの給料は与えていたらしい。「みんな貧乏でなにもない黒人って話をするけど、俺の話わかるか?」


Brewerの父は一時期はかなり稼いでいて、自分の車やラバを持っていたくらいだった。しかしフーヴァーが大統領になって、どんどん貧しくなり、土地も車もなくなって一頭の牛しかいなくなってしまう。


Brewerは1924年11月16日に生まれる。12人兄弟の末っ子として生まれた彼の面倒は(母がそのころできなくなっていたので)一番上の姉が見た。


Brewerの祖父、Aleck Griffinは1850年代生まれで、まさに奴隷売買を経験した世代。彼はなんと90歳まで生きて、Brewerにその時の話をよくした。


父方の祖父、Everett Phillipsはプエルトリコ人。Brewerには1/4プエルトリカンの血が流れている。


彼に最初に音楽を伝えたのは母親で、よく歌っていた。その後ろでBrewerも壁に針金を張ってdiddley-bowを演奏?して遊んでいた。


Brewerの従兄弟の奥さんは同性愛者で、彼の見るところお金が欲しくてその従兄弟と結婚した。(従兄弟は軍にいて、お金を送っていた)彼女からBrewerの姉にギターが贈られた。それがおそらくBrewerが触れた最初のギター。といっても彼の家にはラジオも電気もない(彼の父は家族に自分の育ったような環境で暮らすように強いていたので)ため、どうやって弾くのかまったくわからなかった。


とはいえBrewerは2ヶ月くらいでギターを弾けるようになり、母親の歌ならなんでも合わせられるようになる。曲目はよく知らないけど、ブルースというよりはゴスペルの曲かしらん。Brewerの母は9年間教育を受けていたので、歌えたし、一曲自分で作ってすらいた。ブルースも歌っていたみたい?あと、チャールストンなんかのダンスも教えてくれたらしい。Brewerの最初の先生は母親だったわけだ。


じきに姉たちとBrewerは一緒に歌うようになる。父はみんなに歌わせるのが好きだったがなぜかギターを弾かせてくれなかった。母が説得して弾かせてくれるようになる。父親が唯一ギターを弾けというのは、客が来ているときだった。田舎なのでみんな音楽に飢えていた。


Brewerのおじは退役軍人で、第一次世界大戦で負傷していたので国から恩給をもらっていた。それで彼は黒人の子供のための学校を作った。(Phillips School)国から援助は出なかったので先生に給料を払っていた。Brewerはそこに通っていた。


Lee Porterというギタリストがいた。レコーディングを残してはいないが南部の黒人はみんな彼を知っていた。Brewerに人前でギターを演奏するというアイデアを与えたのは彼だった。演奏する彼の膝に女性が乗って抱きついてキスをするわ、みんながコーン・ウイスキーやフィッシュフライをあげるわで、いい思いをしてるのを見たBrewerは、おれもやるぞ!と思うようになる。

彼はBrewerの態度を見て、色々教えてくれた。Brewerは彼の曲をみんなできるようになった。曲名はない。そして彼は実はBrewerの(後年の)妻のおじだったことがわかった。


Brewerの義理の兄がラジオを持っていたので、Grand Ole Opryなどの番組を聴くようになり、そこでLightnin' HopkinsやJohn Lee Hookerを初めて聴いた。Rufus ThomasやNat D Williamsも。


Brewerの最初の相棒?はピアニストのBobby Hines。TunicaのHardfaceというクラブで演奏していた。ClarksdaleでもL.C.Cationというドラマーと、Robertというホーンプレイヤーとギグをやっていた。


突然Rice Millerの話。Riceは一度人のラバを盗んだ(「マジだぜ!」)白いラバだったので、南部の女性が服を青く染める時の染料に漬けて色を変えてしまった。ラバの持ち主が見ても気づかないくらいに!


Eddie Taylorはいつも「bad little motherfucker」Brewerのお気に入りのギタープレイヤー。


GreenwoodのBayouで、BrewerはBobby Hinesのバックでベースを弾いていた。Percy Brownというギタリストがスライドをやっていた。terrible guitar playerって書いてるけど、「elmoreよりよかった」とも。どっち?terribleってbadass(凄い)みたいな意味もあるのかな。

he was a finger man, too というのは、指弾きということだろうか。ということはelmoreも指だったのか。


Percy Brownはやっぱ相当な腕利きだったみたい。Hound Dogに出会うよりずっと前にもスライドギタリストとやっていたというのは興味深い。前に訳したインタビューでもHound Dogなきあとにスライドの人を探した(で、J.B.Huttoとか、John Littlejohnに声をかけた)というようなことを言っていたが。Hound Dogが忘れられなかった、ということだと思ってるけど、そもそもスライドギタリストとの相性が良かったのかもしれない。


そういえばPercyはElmoreより上手かったと言ってるけど、Hound Dogと比べてどうだったか、ということは言ってない。気になるとこだが、やっぱりHound Dogが一番だったんじゃないのかな。彼の中では。


BrewerはタイミングをピアニストのBobby Hinesから学んだ。先述のLee Porterは弾き方は教えてくれたがタイミングについてはぜんぜん知らなかった。Hinesの方がちゃんとしたミュージシャンだった。


WGRMのBunker Hill MusicのためにBrewerたちは「I Aint Drunk, I'm Just Drinkin'」を録音したが、Jimmy Ligginsが曲を盗んだ(!)と書いてある。著作権の申請をすればよかったが、当時は知らなかったと。


Brewerの奥さん、Suzieとはこの頃に出会っている。シカゴに来るより多分かなり前。このインタビューは95年のLiving Bluesに載っていて、たぶんそのくらいにされたものだが、その年にSuzieは亡くなっている。つまりもう50年くらいは連れ添っていたのでは? Brewerはイメージよりかなりの愛妻家だ。

…と思ったらSuzieは白人と浮気?していて、キレたBrewerは20年間離れて暮らしていたらしい。


さきほどBobby Hinesにタイミングを教わったと書いていたが今度はMemphis Minnie。Memphis Minnieに本当のtimingと「that beat time in between」を教わったと書いてる。Memphis Minnieの教えによって彼はbassとleadを弾く自信をつけた。


Memphis Minnieはなにが知りたいかちゃんと言いさえすればなんでも教えてくれた。「half time」や「how to kick eighth」まで。それと「funny chords」も。演奏についての言葉なのは間違いないが、どういう意味だろう。eighthは8分音符ってことだろうけど。それをkickする?footstompではないだろうから、リードで8分のフレーズを弾くみたいなことか?わからん。気になるな。


Memphis Minnieはクレオールだった。彼女のルーツの人々はニューオリンズにいる。

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