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翻訳:Clifton James インタビュー

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おれはいろんなやつと仕事をした。Wolf、Muddy Waters、Jimmy Reed,Jr.……まあ、知ってるだろ。 Bo Diddleyのドラマーだったんですよね? ああ。俺はあいつのオリジナル・ドラマーだよ。一緒に始めたんだ。あいつにあのビートをやったのはおれさ。 Willie Dixonがそうだといっていました。どのようにあのビートを作ったのですか? わからん。ただ降ってきたのさ。俺があいつとやり出す前、俺は家でなんかを叩いてたんだ。それだけでね。Boに会って、俺たちはシカゴのクラブなんかでやりだすようになった。あちこちで、ちょっともらえるか、なにももらえないかぐらいだったが。実際問題、あんなのはないようなもんだったよ!はした金だった。 Willie Dixonが、あなたはメロディックなサウンドを得るために、チューニングにこだわると言っていました。 そうだね。 ハイハットは使わないと聞きましたが? そうだ。たまには使うけどね。 しかし、そのころあのタム・タムのスタイルは他にいなかったと思います。あなたのアイデアですか? うん、「Bo Diddley」とか「Pretty Thing」なんかは典型的だが、相当たくさんの曲であれをやったね。あとから、Dee Clarkの「Hey,Little Girl in the High School Sweater」でもやった。 Howlin’Wolfの「Killing Floor」もあなたですよね? ああ。Sonny Boy Williamsonともたくさんやったよ。McKinley Mitchell、L.C. McKinley、Buddy Guyに、Little Walterともな。 Frank KirklandがBo Diddleyのほとんどのレコードのクレジットで入っています。彼の役割は? ツアー用のドラマーだったのではないのですか? いや。俺が最初だ。それからやめた。Boのもとを去ったのはうまくいってなかったからだ。それでもあいつは俺をいつも呼び戻そうとしてたけどな。でもうまくいかなかった。 しかし、あれはFrank Kirklandのビートではないのですね? 違うよ。 あなたに影響を与えたドラマーは誰ですか? そのころにかい?ええと、Max Roach,Gene Krupa,それにCozy Cole。 彼らがあ...

翻訳:Earl Hooker インタビュー

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はじめに、定番の質問といきましょう。生まれはどこですか? ミシシッピのクラークスデイル。 誕生日は? 一月十五日だ。 何年かも教えてもらえますか? 俺が生まれたのは一九三〇年の一月十五日だ。 農場で生まれ育ったのですか。 いや、育ちはシカゴだよ、シカゴに引っ越したから。 なるほど、しかし子供のころは、周りの大人はプランテーションや何かで働いていたのでしょうか? ああ。母親も父親もファームで働いてたが、おれが一歳の時にシカゴに移り住んだんだ。 そうなのですね。 だからシカゴが俺の庭で、勝手がわかってるのもシカゴなんだ。 なるほど。ご家族はなにか楽器をやっていたんですか。お母さんは何か演奏しましたか。 おやじはハーモニカと、ギターと、バイオリンができた。おふくろは昔歌ってたんだよな。たぶん、Rabbit Foot Showで、大昔に。 歌手だったんですね。 うん。 家族の中に音楽があったわけですね。 家族はみんな歌えたよ。説教師も、歌手もいて、一人目のいとこにJoe Hintonがいた。「Funny How Time Slips Away」とか、たくさんレコードを作ったやつだ。 なんと、Joe Hintonがいとこなんですか。 そこの写真に写ってるのがJoe Hintonだよ。 本当ですね。あなたと親戚とは知りませんでした。あなたに、兄弟や姉妹はいたのですか? 妹がいてね。あいつもミュージシャンでオルガンと歌をやるよ。 妹さんもシカゴに住んでいるんですか? そう。 ご両親は辛い時代にここに引っ越したことと思いますが。 そうだな。大昔のことで、俺は何も知らないんだが。 あなたはシカゴで生まれ育った、そういうことですね。ところで、あなたがギターを弾き始めたきっかけになった人はいたのでしょうか?どうやって始めたのですか?最初は…… あー、Robert Nighthawkだな、それに、Leo BlevinsとKinky Blevinsっていうふたり兄弟がいてな。そいつらが音楽のやり方を教えてくれたのが最初だ。もともと俺はとんでもない悪童で、ストリートギャングと一緒に走り回ってたんだが、音楽をやり始めてからはそういう悪事はみんな頭から消し飛んじまって、音楽にハマりだしたんだ。最初のギターはSears & Roebuckのだった。毎週一ドルと五〇セント払ってたねえ。 エレク...

翻訳:Hound Dog Taylor インタビュー(1974)

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Hound Dog、いつから演奏を始めましたか? 1935年に、MississippiのTchulaあたりでだ。 誰を観ていましたか?それと、だれに影響を受けましたか? みんなさ。Elmore Jamesとか、Lightning Hopkins,Jimmy Rogers,Skip James,に、John Lee Hookerも観たよ。おれらはみんな一緒に育ったんだ。 どんな場所で演奏していたんですか。 アンプやらなにやらは何もないところでね。ただ家で演奏したんだ。Barrelhouseって呼んでたよ。 なぜ北に来ることにしたのですか? ああ、いろいろあってな。あのころはカラードの扱いってのはひどかった。もしカラードのやつについてなんか噂されたら、白人は確かめもせずに行動するような時代だ。白人女についての話で、そもそもは嘘だったんだけど、500人くらいの白人がおれを探しにきて、うちの周りを取り囲んだんだ。だからずらかったのさ。41年にまっすぐシカゴに行った。それから43年か44年あたりにはインディアナに来た。それ以来ずっとここだね。 大都市で暮らすにあたって自分を合わせる苦労はありましたか。 いや。おれにはいつも俺の考え方があったから、どこに合わせる必要もなかったね。なぜって自活してきたからな。おれには親父もいなかった。9歳の時にはおじさんがいたけど、おれを追い出した。それで、俺は自分の考え方を手に入れたわけだ。 ひとは、白人は黒人を嫌いだとか、はたまた黒人は白人を嫌いだとかいうが、俺の考え方はこうだ:俺は誰でもオールライトさ。それで問題になったことなんかねえ。 子どもの時、おれはギターを背負ってハイウェイを南に下っていった。白人相手にもプレイしたし、カラード相手でもプレイした。俺を変に扱う奴なんかいなかったぜ。みんなおれには同じに見えるよ。あんただってそうさ。人間と人間だよ。わかるだろ。 それでは、どうやってシカゴに行ったのですか? 夜の10時から朝の7時までバスに乗っていったのさ。ハイウェイの草むらに寝転がって隠れてたんだ。バスに乗りこんで、まずはメンフィスに行ったんだ。ニグロ用の小さいベンチに座ってな。白人側には柔らかいイスがあって、広かったっけな。 なぜシカゴに行ったのですか? おれの姉がいたんだ。だからRoosevelt roadで降りた。そこから赤い路面...

翻訳:Morris Jennings インタビュー

Morris Jenningsは”シカゴのBernard Purdie”として知られる。「おれはプレイして、さらにプレイして、たくさんのギグをやった。でもドラム・キットの後ろやなんかに看板なんかを下げたことはないね。」とJenningsはいう。「俺はドラムをプレイしてきただけで、それだけさ。」 ある意味で、Jenningsはブルースから遠く離れ、音楽の他の枝ーたとえばジャズ、ファンク、R&B、ロック、メインストリームのポップさえーと接続することに成功したシカゴ・ブルース・ドラマーの、代表的存在といえるかもしれない。彼はシカゴのCMジングル業界でも認められている。Jenningsのこの多彩さの一部は、ジャズや、彼のいうところの「クラシック」の教育を受けていること、に拠るところもあるだろう。そして、多様性に対しての憧れを育んだことにも。しかし、そもそもそれは、ドラマーとして生きるために、シカゴでライブやレコーディングの仕事をこなしていくために必要なことだったのだ。 シカゴのような、ブルースに囲まれた街で育つというのはどんなことでしたか?  音楽がそこら中にあったのは間違いない。全ては素晴らしかった。Bo Diddleyは1ブロック隣に住んでいたし、Muddy Watersもそんなに遠くなかった。大きな通りには必ずブルース・ジョイントがあった。俺が小さい頃はね、わかるかな。夜中に家を抜け出して、ブルース・ジョイントの外で聴いてるなんてことはよくあったんだ。英才教育がそこにあったってわけだね。それが博士号みたいなもんで。俺はいまだにその時の経験から引き出すものがあるよ。  でも当時のシカゴで最大、最高のものはー少なくともミュージシャンにとってはだがーDuSable高校に行って、"Captain" Walter Dyett先生に学ぶことだった。あの人は全員に教えたからね。Wilbur Campbellから、J J. Johnson、Nat King Cole、Sarah Vaughanまで。DuSable高校の卒業生のその多くが、大スターになったりいいミュージシャンになった。教育はストリートにもあったし、学校にもあったってことだ。もしそれを生かしたいと思うならね。  今では俺が受けたような「ブルース教育」は、若いやつは受けられなくなってしまった。今...

翻訳:Big Walter Horton インタビュー

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  Louis Myers(?),Sonny Boy Williamsonについて聞いてもいいですか? Oh,yeah!Louisね。(聞き取れない) 彼らのスタイルはあなたとどう違いますか?  Well,そんなに多くは違わないよ。それに…彼の知ってる半分くらいのことについては俺が教えたしね。 Sonny Boyに?  ハーモニカについてはね。そうさ。 本当ですか?(笑)  あいつのスタイルはもともと俺のものだった。でもあいつが覚えちゃったから(?)、俺は新しいスタイルを作ることにしたんだ。俺はほかの誰みたいにもプレイしたくない。you know?俺は、俺みたいにプレイしたいんだ。ほかのやつのことは考えないね。音楽においてはね。俺の音楽はほかのやつのと違ってサウンドしてほしい。  なぜなら、Sonny Boyみたいにやったら、それはSonny Boyスタイルだ。Little WalterみたいにやったらLittle Walterスタイルさ。  こっちのWalterらしくプレイさせてくれよ!(笑)

音源: Recording of performances and interview with Louis Meyers at the Kingston Mines, Chicago, Illinois,

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音源 https://www.loc.gov/item/afc1981004_afs20637a/ https://www.loc.gov/item/afc1981004_afs20637b/ 写真 https://www.loc.gov/item/afc1981004.b45841/ 出演者 Myers, Louis (Interviewee) Johnson, Jimmy (Performer) Stroger, Robert (Performer) Payne, Odie (Performer)  シカゴ・ブルースファンの間で人気の高い、「最高のリズムセクション」The Acesの一翼を担ったルイス・マイヤーズ、のインタビュー&演奏音源。 先日亡くなったJimmy Johnsonも参加している。 こちらのライブラリでは無料でこうした音源などを公開しているので ネタのない時に紹介してみます。 時間あれば聞き取りと翻訳も。でも、聞き取りって大変だから、タダでやりたくないな…。

翻訳:Jimmy Tillman インタビュー

Jimmy Tillmanはブルースとそのドラミングに対して、非常に強い歴史感覚をもってアプローチする。文化遺産としてのブルースについての知識をこれほどまでに備え、保存に対しての意識の高いドラマーは他に会うことはなかった。自身が尊敬を集めうるドラマーであると同時に、彼は教師であり、作曲家でもあり、指導者であり、脚本家であり、ライターでもある。彼は演劇作品、"Muddy Waters:The Hoochie Coochie Man"の制作を牽引していた。それに"The Art Of Blues Drumming"という冊子を執筆した。ブルースを知らないドラマーにむけた素晴らしい教則本だ。 熱心に、そして明瞭に、彼はブルースを出版あるいは口伝えに人に教えている。 私がChicagoにいる間、彼は"Muddy Waters"の公演に招待してくれたが、Chicago Blues Festivalの間だったので行くことはかなわなかった。したがって彼は、ショウの始まりについて、またMuddy本人との特別な関わりについて説明してくれた。それは以下に記す通りである。 "Muddy Waters:The Hoochie Coochie Man"はどのようにして始まったのか教えてください。  この劇は1982年のMuddyにインスパイアされているんだ。私はそのときChicago Blues All-Starsと仕事をしていて、Muddyともツアーしていた。彼が、誰も自分の人生について本に書いたり、形にしたことがないという話を出したことがあった。  私はシカゴに住んでいるブルース・アーティストとして、シカゴ小学校で子供たちにブルースの歴史を教えていることを話して、自分にできることはないか、と聞いてみたんだ。彼はぜひにと、そうしてくれたら本当に感謝すると言ってくれたよ。シカゴからブルース・ミュージシャンとして成り上がることはどういうことだったか、彼がどういう苦難に直面したのか、を若い世代に知って欲しいと、彼は強く思っていた。  それでこのツアーの間、二人で座っては、Muddyが自分の物語を話し始めるようになったんだ。演劇にしている情報の多くは彼本人か、Willie Dixonに聞いたものだ。それから程なくして、...

翻訳: Casey Jones インタビュー

Casey Jonesは1956年に、Little Richardを夢見てシカゴにやってきた。Little Richardこそが彼の関心事だった。しかしJonesはすぐシカゴ・スタイルのブルースに腰を据えることになった。「何ブルースでもよかった。とにかくものにしたかっただけさ」と彼は回想する。  今日、Jonesはシカゴで一番多忙なブルース・ドラマーだ。Johnny Winterと録った2枚のアルバム―"Guitar Slinger"と"Serious Business"(いずれもAligator Recordsから)は、彼のクールで正確なバックビートを聴ける好例といえる。彼はできるときはいつでも自分のバンドでプレイするし、"Airwax Records"という小さな独立レーベルも運営している。さらに、自作の曲をいくつか録音することも計画している。  Jonesと話したとき、彼はWinterとの仕事を終えたばかりだった。Jonesは活力にあふれ、プライドを持てるミュージシャンだ。機会が与えられれば一日で三つのセッションだってこなすだろう。それも毎日。「仕事がしたいんだよ」というときの彼の笑顔は、James Brownのそれを思い起こさせた―"I'm ready, able, and willin'"というわけだ。 50年代中ごろにシカゴに移住したのはどういった理由からでしょうか?  ああ、俺の義理の兄貴が、シカゴでOtis Luke & The Rhythm Bumsってバンドをやっていたんだ。ドラマーが足りないというんで、ある日俺が呼ばれたんだが、ドラム・セットについては何も知らなかったんだよな。マーチング・ドラムしかやったことがなかったから。だけどシカゴに来てトライしてみたよ。ギグを通してな。わかるだろ。そうしているうち、グルーヴにハマってしまった。  ほとんど問題なかったがハイ・ハットだけはだめでね。あれをちゃんと使うのにはずいぶん苦労したよ。そもそもハイ・ハットを持ってすらいなかったからな。バスドラム、スネア、シンバル。これだけだ。  その頃は1週間に7晩、それぞれ違うブルース・バンドを聴きに行けたものだ。この街じゅうが活気にあふれてた。最近じゃそんなにた...

翻訳:Odie Payne,Jr. インタビュー

Odie Payne,Jr.は遅めのペースで、疲れた様子で話す。背中が痛み出すと、さらにゆっくりと言葉をつなぐようになる。私がインタビューしたのは、彼がPee Wee Crayton、Eddie "Cleanhead" Vinson,Lowell Fulsom,Margie Evansなどのバックをこなした演奏の翌朝である。  ふつうの健康なドラマーであっても相当な激務にちがいないギグだが、背中の痛みを抱えてなお、彼には喜びのようだった。60歳の彼だが、仕事を断ることはほとんどない。「演奏している間は痛くないんだよ。来るのは後からだ。」と、少し笑いながらいう。「あんなCatsと演奏できることは長いことなかったんだ。俺が憧れてきた人たちだ。そんなチャンスをフイにできるか?no sir.」  さて本日、Payneは楽に歩いたり話したりしていた。背中の痛みで今日のリハーサルを逃すことがないように体力を温存しながら。彼にとっては、演奏できないことの方が背中の痛みよりも辛いのだろう。 あなたのシカゴ・ブルース・ドラマーとしてのキャリアの開始は、1940年代後期にもさかのぼります。これはジャンルや場所を問わずとても長いですね。  ああ。そうだろうな。俺が最初にナイトクラブで演奏したのは1949年のことだから。その時はTampa Redと一緒だった。 それではあなたがドラムの演奏を始めた頃の話を伺いたいと思います。  Dusable高校でのことだ。あれはドラマーには素晴らしい学校だった。いや、全てのミュージシャンにとってというべきか。何の楽器をやっていようとだ。最高の先生もいた。Walter Dyett先生※1はとても情熱的で、 彼の陰口をいう人なんか一人もいなかった。とても尊敬されていたよ。彼が集会場に現れると即座に皆静まり返ったものだ。彼は時として苛烈で、人を見つめるだけで泣かせられるくらいだったがいい先生だった。皆に尊敬されて、評価されていたんだ。 プロのドラマーになりたいと思ったのはその頃のことでしたか?  実際はもっと前だ。さらに昔、俺は学校の机を指で叩いてドラムの基礎を覚えた。空の机っていうのは指で叩くとなかなかいい音で鳴るんだぜ。先生が教室を出たらいつでも演奏開始だ。そしたらすぐ、クラス中がジャンプし出す。それで毎回先生が戻って来て俺を捕まえるん...

翻訳:John Primer - "Blues Ain’t Nothin’ But the Mind"

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CheckerboardでStonesとMuddyと共演したときについて最も印象に残っていることは何ですか?警察がファンをクラブに近づけないようバリケードを張っていたことが思い出されますが。  何が起こっているのかよくわからなかったけど噂になってたな。Rick Kreher(ギタリスト)が、Stonesが登場するかも、みたいなことは言っていたけど。Mojo Buford(ハープ・プレイヤー)に、あいつらが街に来てる時はだいたい出てくるかもって噂されるけど、本当に出てきたことはない、ってな。でも、あいつらはLefty Dizzを観たがってたんだ。Lefty Dizz狂いだからな。 そういったうわさが流れていたわけですが、本当に現れましたね。驚いたことと思います。どう思いましたか?  連中が入ってくるのを見たとたん、Oh, man.何が起きてんだ?と思ったよ。まったくパーティみたいになってたね。 あなたたちのようなSouth Sidersとは違った格好をしていましたね。取り巻きに囲まれ、ロック・スター然として。  俺たちはバンドで演奏しながらMuddyをステージに上げたんだ。それからthe Rolling Stonesも上がってきたよ。連中は真ん中で座り込んでバーボンとウイスキーを飲んでたね。 ええ、ステージで飲むことは知られていますよね!そのCheckerboardでの共演はDVDドキュメンタリーにもなっていますね。  ああ。俺も持ってるよ。greatなフィルムだね。 Stonesのシカゴ・ブルース・トリビュート、『Blue And Lonesome』についてはどう思いますか?聴いたことはありますか?  ああ、CDを持ってるよ。Stonesだぜ、man!連中は自分のやり方でやっているんだ。greatなやり方でね。いいCDだよ。彼らのやり方は好きだ。あれ以上はないね。俺が同じことをやるとしたら、同じようにやるだろうね。トラディショナル・ブルースで、連中はやり方を知ってるんだ。 MickとKeithはMuddyのアルバムを通して意気投合し、Muddy Watersの曲からバンドの名前をとりました。彼らはブルースバンドとして始まったのですよね。  そうかい?あれは、The Rolling Stonesだぜ!彼らは素晴らしいよ! MickとKeithは『Chicago Pla...

翻訳:Fred Below インタビュー

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プロのドラマーとして活動し始めた時の背景を教えてください。  40年代の初めごろ、DuSable高校に通っていた時、Johnny GriffinやEugene Wright(のち、The Dave Brubeck Quartet)とよく演っていたんだ。 同じ学校に通っていたからね。その時はトロンボーンを始めたのだけど、あまり向いていなかったからドラムに転向したんだ。  私の若いころ―というかもっと小さいころ、まさしく音楽に囲まれて育ったよ。30年代の初めごろは、子どもながらにVendomeやRegal TheaterやMetropolitanみたいなところに通っては、最高の黒人ビッグバンドを観たものだった。彼らはよくシカゴに来ていたからね。 高校に入るときに、Chick WebbとGene Krupaを観てドラムにすごく興味を持ったんだ。Cab Calloway と Billy Eckstineのバンドも観に行った。彼らは本当に俺を目覚めさせたね。 ドラムはArt Blakeyでしたよね?  そう。Art Blakey。まったくEckstineは凄い奴らを大勢抱えていた。彼らを聴いているとやろうという気持ちになったし、さらに興味も沸いていった。 俺は幸運にもそれぞれのメンバーを観て聴くことができたものだけど、なかなか今どきあんなバンドは見れるもんじゃないよね。Regalなんかに行っては、2、3回分のショウをぶっ続けで観たりしたよ。  今でも思い出すけど、私が卒業する直前にBilly Eckstineを見に行った時、彼は自分のビッグバンドを解散してソロになる直前だったんだ。 それはシカゴ公演最終日だったから、DuSable、PhilipsやEngwood高校の生徒が劇場に詰めかけていた。Billy Eckstineがステージに上ったとき、彼らは演奏を止めた。照明がついてみると、劇場は子供で満杯だったよ。子供を追い出すために3校の教師まで来ていたくらいでね。なかなかとんでもないことだったね!ビバップ前夜の話さ。(この段落自信なし) Chick Webbを観たときあなたは何歳だったのでしょうか?  10歳は超えていなかったね。 観て、感銘は受けたのでしょうか?  うーん、まだ音楽をやることに興味は持たなかったと思うけど、好きだったね。やっぱりBilly Eckstineに...

翻訳:Brewer Phillips at Okno Krog 1993

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あなたの人生、キャリアについて聞かせてください。あなたはミシシッピの生まれですね?  ああ。ミシシッピのBlackhawkだ。(笑)マジで小さい町でな。 (聞き取れない) どのくらいの間住んでいたのでしょうか。つまり、シカゴに移り住む前は。  俺が生まれたのが…(咳払い)失礼。俺は49年にメンフィスに来た。それで3年くらいMemphis Minnieと住んでいた。あいつが俺にギターを教えてくれたんだ。 Memphis Minnieですか!それまでに他のブルースマンとやっていたことはあるのでしょうか。  ミシシッピのデルタでバンドをやっていたんだ。小さいクラブで演ったり…この部屋よりゃデカかったけどな(笑)(聞き取れない)でも全く金がなくてな。 それでは、ミシシッピでは有名なミュージシャンと共演することはなかったのでしょうか。  ない、無いな。メンフィスですらなかったよ。Howlin' Wolfもミシシッピのデルタの出身だけど、近所じゃなかったしな。(聞き取れない)ギターも何も持ってなかったし…だからMemphis Minnieのギターを借りてアーカンソーのウェスト・メンフィスの小さいクラブで演奏したりしてたんだ。「Hitmen」って小さいバンドをやっててな。それと「Cotton Pickers」。「Hitmen」と「Cotton Pickers」でプレイしたんだ。ッハ(笑)ウェスト・メンフィスあたりでな。 それから56年にシカゴに来た。 56年。  ああ、(聞き取れない) Hound Dogとはいつからプレイしているのでしょうか。  57年だよ。ドラマーのLevi Warrenとな。それでギグして回っていたが…59年頃にTed Harveyと出会った。それから俺たちはHound Dogが死ぬまで一緒に住んでいた(正確に聞き取れない)んだ。あいつは76年に死んだ…いや!75年だな。悪い。75年だ。 Aligatorと契約する前はレコードを作ったことはあったのでしょうか。  ああ、Hound Dogと俺とLeviで「Cadillac Baby」ってやつを作った。それと「Take Five」だな。「Cadillac Baby」より先に出したんだ。ミシシッピ・シカゴの57番通りでレコードを出した。ヘッへへへ(笑)(聞き取れない)No money、no moneyだ。...