プロのドラマーとして活動し始めた時の背景を教えてください。
40年代の初めごろ、DuSable高校に通っていた時、Johnny GriffinやEugene Wright(のち、The Dave Brubeck Quartet)とよく演っていたんだ。
同じ学校に通っていたからね。その時はトロンボーンを始めたのだけど、あまり向いていなかったからドラムに転向したんだ。
私の若いころ―というかもっと小さいころ、まさしく音楽に囲まれて育ったよ。30年代の初めごろは、子どもながらにVendomeやRegal TheaterやMetropolitanみたいなところに通っては、最高の黒人ビッグバンドを観たものだった。彼らはよくシカゴに来ていたからね。
高校に入るときに、Chick WebbとGene Krupaを観てドラムにすごく興味を持ったんだ。Cab Calloway と Billy Eckstineのバンドも観に行った。彼らは本当に俺を目覚めさせたね。
ドラムはArt Blakeyでしたよね?
そう。Art Blakey。まったくEckstineは凄い奴らを大勢抱えていた。彼らを聴いているとやろうという気持ちになったし、さらに興味も沸いていった。
俺は幸運にもそれぞれのメンバーを観て聴くことができたものだけど、なかなか今どきあんなバンドは見れるもんじゃないよね。Regalなんかに行っては、2、3回分のショウをぶっ続けで観たりしたよ。
今でも思い出すけど、私が卒業する直前にBilly Eckstineを見に行った時、彼は自分のビッグバンドを解散してソロになる直前だったんだ。
それはシカゴ公演最終日だったから、DuSable、PhilipsやEngwood高校の生徒が劇場に詰めかけていた。Billy Eckstineがステージに上ったとき、彼らは演奏を止めた。照明がついてみると、劇場は子供で満杯だったよ。子供を追い出すために3校の教師まで来ていたくらいでね。なかなかとんでもないことだったね!ビバップ前夜の話さ。(この段落自信なし)
Chick Webbを観たときあなたは何歳だったのでしょうか?
10歳は超えていなかったね。
観て、感銘は受けたのでしょうか?
うーん、まだ音楽をやることに興味は持たなかったと思うけど、好きだったね。やっぱりBilly Eckstineに感動して、音楽をやりたいってことに気づいたんだよね。
いつ、プロになることを決めたのでしょうか?
14歳の時だ。父は応援してくれたよ。でも、全部自分でやったんだ。なぜなら友達のEugene WrightやJohnny Griffinはすでに演奏をしていたからね。彼らと一緒にいるうち、「うん、こいつらと一緒にやってれば、俺も同じようにできるようになるかもしれないぞ!」って思ったのさ。それで、私も楽器を手に取ったわけだ。すぐにほれ込んでしまったね。
家でドラムの練習はできましたか?
なかなかできなかったね。当時はね、ドラムセットで練習するより先に、ドラムの演奏ができてなくちゃいけなかったんだ!だからパッドでひたすら練習したよ。結局DuSable高校を44年に卒業するまでドラムセットは買えずじまいだった。
45年に陸軍の歩兵連隊に入隊したので、音楽を続けることはできなかったけど、ヘルメットの中帽(helmet-liners)、ヘルメット、箱、そんなもので練習していた。歩兵をやりながらバンドはできないのさ。
アラバマのMcClellan基地にいたとき、ベーシストのTommy Potterに出会った。つぎにPrez(Lester Young)にもね。そこに飛び入りしては演奏するチャンスを得たんだ。そのあと南太平洋に配属されていたので、シカゴに戻ったのは46年になってからだった。その時には、知り合いはみんな町を出ちまっていた。とにかく、Roy.C.Knapp学校に行ったよ。
高校の時、譜面を読むことを教えてくれた音楽の先生はいたのでしょうか?
ああ!DuSable高校には最高の先生がいたからね。それがWalter Dyer先生だ。私は高校で音楽を学んだんだよ。KnappではWilbur Campbell、Marshall Thompson,Elgie Edmonds,Odie Payneに出会った。ドラマーが売るほどいたんだ。
Roy.C.Knapp学校について話してくれませんか?
あそこは、新入生がルーディメンツを知ってても、自分が何をやっているかわかるまでもう一回教えなおしてくれるような学校でね。譜読みと音楽鑑賞の授業があった。そこでは、いろいろな音楽を集中して聴かなきゃいけない。ジャズだけをやるわけじゃないんだ。ジャズも、協奏曲も、行進曲も、ラテン音楽も全部やるのさ。
あと、譜面も書かなきゃならなかった。私にとっては高校の復習みたいなものだったが、しかしレベル自体はすごく高かったよ。ほとんど大学のレベルでね。そうやって演奏能力を向上させてくれたんだ。
Knapp校は死ぬほど優秀な先生を何人か抱えていた。さらにGene Krupa,Buddy Rich,Hampton、といったような・・・、当時の全部のビッグバンドが街に来ては、学校にも寄って行ったりしたんだ。その中でちょっとした技やなんかを教えてくれたりね。Gene Kruppaがよく演奏するところにもよくいったもので、そこではそれぞれの学校のドラマーを呼んでは、ほかのプレイヤーが何を演奏しているのか聴かせてくれたんだ。それによって学校で習ったことを実践的な場面でどう使ったらいいかわかったわけだ。Man.これは本当にいいきっかけになったよ。学校に行くだけじゃなくて、実用したんだ。習ったものを「使った」んだよ。
さらに、技術も教わった-どうやって違うことをやるか、カウントを数えなくてもカウントを取れているようになるにはどうしたらよいか。考えてなくても、8小節の小節線が聞こえてくるようにね。4小節だろうと、2小節だろうと同じだ。
また、ドラム・ミュージックを作曲する多くの人は、すべての指示を譜面に書いておいてくれるわけじゃない。ドラマーだったら、即興をするのに十分なくらいにはドラミングについて知っておかなきゃならないんだ。
ブラシのテクニックは教わったのでしょうか?
彼らにはすべての技術を教わったよ。マレットやブラシの使い方から、何から何までね。ドラムを教わるだけじゃない。ドラマーは全員、もう一つ楽器ーヴィブラフォンをやらなきゃいけなかった。ヴィブラフォンをやるとフィーリングも身につくし、それにコードはどうやって構築されているのかを知るのに役立つ。ドラムに切り替えたくなるかもしれないけどね。
当時はまだ若かったから、行けないナイトクラブがたくさんあった。だから1948年には陸軍に再入隊したんだ。Roy Knapp校は卒業して、ドイツに渡った。ドイツにいる間は、special servicesの第427軍楽隊に入っていた。そこで4年くらいは過ごしたかな。その間大学に通ったんだ。軍楽隊ではまた、さらに音楽を勉強することになった。でも、私はRoy Knappで得た技術を持っていたし、しかも1946年から1948年にシカゴに戻っていたときにビバップも学んでいたんだ。私がドイツがいた時その軍楽隊はビバップはやってなかった。
部隊は28人編成のスウィングバンドに始まって、4,5組のスモール・コンボ、それに大きなマーチングバンドを擁していた。我々は第7777儀仗隊と一緒にいて、特別な制服も与えられていた-ウェストポイント(陸軍士官学校)みたいな、クロムめっきのヘルメットと制服をね。
楽隊に入るには楽譜が読めなきゃならなかった。適当にごまかせなんかしない。読めなきゃ、入れないだけ。なにしろ、我々のお客はアメリカから来た大物政治家やら、大使やら、国王やら女王やら、ばかりだったからね。何にせよ、ヨーロッパにお偉方がなにか大きな用事で来たときは、いつも私たちの出番だったわけさ。
最後に陸軍をあとにしたのはいつのことだったのでしょうか?
1951年だ。シカゴに戻って、自分の音楽に復帰したいと思ってね。ドイツで学んだということもあって、ドラムからヴィブラフォンに切り替えて少しやっていた。ドラムじゃなくてヴィブラフォンをメインにしようかと思っていたくらいだ。
シカゴに帰ってきたとき、Gene Ammonsやらたくさんの連中を探し回ったけどみんな出て行ってしまっていた。AmmonsはたぶんWoody Hermanと一緒だったと思う。Johnny Griffinはどこか知らないが、とにかく皆いなかった!
Elgie Edmondsは1946年以来の知己だ。父の家の近所に住んでいたから、駆け込んだよ。
彼が私をブルースに目覚めさせ、David・Louis Myersに紹介してくれたんだ。
私は言った、「よし、まあやってみよう」それがブルースの演奏に足を踏み入れた最初の一歩だったわけだ。でも、同時に私はジャズもやっていたから、ブルースにすべての時間を捧げたわけではなかったね。
Elgieはあなたより歳上と言っていましたね。
ああ、彼は私よりずっと歳上だよ。彼はブルースを知りもしないうちから、数々のスウィング・バンドで叩いていたんだ。
子供のときから、私はギターもハーモニカも全く知らなかった。ハーモニカについて知ってたことといえば、映画に出てくるHarmonicatsを見たくらいなものだ。Roy Rogersだか、Gene Autryだかが出てくる、カウボーイ映画のね。他には何も知らなかった。
待てよ、Larry Adlerは観たことがあるな!一度高校に来たことがあった。ブルースはたいしたものだったけど、特別ピンとは来てなかった。というより、なにしろすべての音楽にピンと来ていたわけだから、ブルースというよりはたんに音楽として良いと思ったな。
Knapp校時代では、クラシカルなドラミングで交響楽をやったこともあるのですか?
俺は全部(everything)をやったんだよ!そう言ったはずだぜ。私がKnappにいた頃は、ドラマーはスティックを持ってスネアドラムを座って叩くだけじゃダメだった。スネアドラム、ボンゴ、ティンパニを叩けて、チューニングもできなきゃいけないんだ。座って、「tit tat tit tat」なんてやるだけじゃない。パフォームして、音符を演奏して、自分が何をやってるのか常にわかってなきゃいけない。それでやっと掴むことができるからだ……
いわば、医者になるために学校に行くようなものだよ。目医者になりたいのか、何医者になりたいのか、学校は知りたがる。ドラムでも同じだ。ラテンがやりたければラテン音楽を専攻するし、ジャズやスウィング・ドラマーになりたければー当時はそうやって呼んだんだースウィングのすべてを知らなきゃいけない。マーチングバンドや協奏曲をやりたければ、それを専攻する。そんな風にコースが設置されていた。
すべてを教えた上で、専攻するとさらに新しい側面を見せてくれる。あの学校は私が入った中では一番素晴らしいものだったね。
大物バンドのドラマーは学校に来て、生徒に話しかけたりしたのでしょうか?
ああ、もちろん。そこで私達はフィーリングを手にしたんだ。それで、学校を終えてクラブに行くと、ステージ上のドラマーが「ladies and gentlemen,Roy C Knapp校のパーカッション科の生徒たちが来てくれています。彼らに温かい拍手を」なんて言ってくれたりしたよ。25人とか30人の生徒が座っていたな。
あなたはよい教育を背景に出てこられましたが、ブルース・ミュージシャンは、3小節や7小節フレーズを弾くと言っていましたね。彼らと演奏し始めたとき、苛立つようなことはありませんでしたか?
それが全くなかったよ。面白い話で、私はなんだってプレイできるくらいには、音楽を知ってると思っていたんだ。でも、ブルースに至っては聴いたこともなかった!man,これはものにしたいと思ったよ。「Wow!俺がプレイできない音楽があるぞ。俺は音楽を知り尽くしているはずなんだから、これは勉強しないとな。」ってね。
彼らがやっているブルースを理解したとき、それをどうやって整理してやればいいかもわかった。(?)私は私の技術を使ってブルースをプレイしたし、そこに私の即興も取り込んだ。そうやって覚えたんだ。Boy,あれにはノックアウトされたよ。
本当にブルースをやるうえで参考にしたドラマーはいなかったのですね。
(参考も何も、)俺みたいなことをやってるドラマーはいなかったよ!
Elgie Edmondsはあなたが初めて出会った「ブルース・ドラマー」でしたか?
ああ。その通りだね。ドラマーはそこら中にいたけど、ジャズ・ドラマーでブルースをやっているのは私くらいだった。私はちょっと違っていてね。Myers兄弟が、私にとって最初にブルースを一緒にプレイした連中だったんだ。
彼らはあなたと同じように、すべての音楽をプレイするための知識を持っていたのでしょうか?
いや。あいつらはきっぱりブルースだけをやっていたよ。カントリー・ブルースこそが彼らの領域だったんだ。わかるだろ?それは大きな違いだった。
ブルースは書くものじゃない。楽譜に書けるものもないし、それを読んで演奏することも当然できない。ブルースは楽譜でプレイできるものじゃない。Blues is a feelingなんだ。フィーリングを紙の上に書いて、「こういう風にプレイしてください」なんて言えるもんじゃないだろ。なぜならそんなことをやっても、望みどおりになるわけないからだ。
Myers兄弟がやっていた、「ブルース」は、人から人に口伝いに広まっていくものだった。要するに奴隷制のもとでうまれて、そこら中に広がっていったわけだろ。当時の人たちは楽譜を書くことなんてできなかった。なぜなら読み書きができなかったからだ。以上!だから、ブルースを楽譜に書くなんてできることじゃないんだよ。
ブルースをやり始めた時、たくさんのブルースのレコードを聴いたりしたのですか?
いや。私はいろいろなミュージシャンと一緒にいたから、彼らのやってることを見て、掴んでいった。それだけだね。それにChess Recording Companyに入ってからは何もかもがすごい勢いで過ぎていったしね。DaveやLouisとうまく演れるようになってからは、他のブルース・ミュージシャンも私のやることを認めはじめた。パンケーキを焼くみたいにレコードを作っていったよ!
あなたはChessのスタッフ・ドラマーだったのですね。
そうだ。
給料制だったのでしょうか。
いや。union scaleだったね。
※1:組合で定められた最低賃金のこと。
AFM(American Federation of America―米国音楽家連盟)のHPによると、
・ダンスホールで演奏する人には週9ドル10シリング、
・永年契約の交響楽団のメンバーには週11ドル10シリング、楽長には週16ポンド(1952年)
レコーディングアーティストについては、
・すべてのレコーディングに参加したミュージシャン一人当たり週6ポンド(1955年)
(拘束時間が4時間以下であっても)
Chessでのレコーディングセッションはどのような感じでしたか?
Oh,man!とても楽しかったよ。それはたくさんのミュージシャンとレコーディングをしたものだ。Chessから出たブルース・ミュージシャンの全部とやったんじゃないかな。
Muddy WatersやLittle Walterにとどまらないのですね。しかし、彼らのバンドでツアーに出ることはなかったのでしょうか?
当時はLittle Walterとしかやっていなかったね。
しかし、私はElmore James,Ruth Brown,Etta James,Muddy Waters,Bo Diddley,Chuck Berry,Junior Wells,Buddy Guyとレコーディングした。Dinah Washingtonのアルバムも録ったな。The MoonglowsやThe Platters、The Driftersともやった。7-UpのCMも作った。私はジャズを知ったうえでブルースをやっていた。だから自分がやりたいことは何でもできたんだ。Red Hollowayともやったことがあるね。
バンドリーダーとしてのLittle Walterはどのような人物だったのでしょうか。
Little Walterは私が知る限り最高のハープ・プレイヤーのひとりだ。それは言っておこう。
彼のおかげで、私の時代のハープ吹きたちは認知されることができるようになったんだ。彼はとても優れたバンドリーダーだったよ。
アメリカ中ツアーしたものだ。北から南、東から西へとね。
作曲はどのようにして行ったのでしょうか。Little Walterが全員に指示したのですか?
いや、もっと共同作業的なものだったね。私がプレイする。するとWalterがプレイする。そうしたらギターが何かをプレイする。みんなの頭の中で会議をやるようなものさ。検討して、合わなきゃボツにするんだ。これは捨ててこれを入れようかとかね。ギターのやつが「こんなランはどうだろう?リフにしてみないか」と言ったとする。そうしたらみんなでハープと一緒に試すんだ。ハープがハマらなかったら、ドラムとしてもうまくフレーズが作れない。で、みんなで「これじゃダメだ。他考えようぜ」というわけだ。共同作業さ。
初めて出た大きなギグは、New YorkのApollo Theaterでのことだった。たったの4ピースのバンドだったから、誰もが受け入れられるはずないと思っていたものだ。Man,俺たちを見た観客は熱狂の渦だったよ!
その時の共演者は誰だったのでしょうか?
Nappy Brown, The Moonglows ,The Drifters ,Slappy White,Buddy Johnson's Big Bandだな。
つまり、Little Walterのバンドは、Muddy Watersを除いては、唯一のエレクトリック化したグループだったのでしょうか。
少し違うな。Muddy Watersは俺たちの前じゃない。電化バンドでツアーに出たのは私たちが最初だよ。
WalterバンドはBilly Shaw Booking Agencyを通して国中を旅して回ったんだ。その後にMuddy Watersだ。それからEddie Boydさ。そうそう、Eddie Boydともレコードを作ったことがあるよ。
Little Walterのバンドはロックン・ロールバンド編成の先駆者としての功績を評価されていますが。
フム、付け加えておくとだね。一番最初のロックン・ロールショー、あるいはロックとも言うそうだが、ってのはそもそも私達がやってた、リズム&ブルースなんだ。ロックン・ロールなんて誰も思いついてない時からやってたんだぜ。
以前、Alan FreedのデビューのためにオハイオのClevelandで演奏したことがある。初めてのロックン・ロールショーだ。その日は他にもThe DriftersやらThe Moonglowsやら、そんなのがいたが、誰も取りあげたりしなかっただろ。みんなが騒ぎ出したのは白人のグループが同じことをやりだしてからさ。でも、Alan Freedはそいつらより前に、Little Walterがやってたようなことに目をつけたんだ。
Alan Freedにはどうやってコンタクトを取ったのでしょうか?
こっちがとったわけじゃない。向こうから声をかけてきたんだぜ!その頃はそれはたくさんの音楽があった。でかいロックンロールショーのことをみんな言うけど、そんなの当時は生まれてもなかった。私たちの音楽が最初だったけど、他の音楽ほどは売れなかったんだ。多分ね。で、白人のバンドがやってきて、やっとみんな気づいたんだな。俺の見立てではね。連中はNew Yorkに行って、相当盛り上がったようだ。FreedはClevelandでは大物だった。最初のショーはその後のよりは大きくなかったが、しかし最初にロックン・ロールの話が出てきたとき、それはLittle Walter、The Moonglows、Buddy Johnsonやらそういうグループについて言われていたはずだ。
Walterのバンドでの持ち時間はどのくらいだったのでしょうか。
それぞれのバンドがせいぜい30分から40分だったな。何しろ出演者が多かったから。3曲か4曲やったらそれで終わりさ。
あなたは他のグループとして叩いたのでしょうか?
The Moonglowsのバックはやったよ。一緒にレコードを作ったからな。「Sincerely」って大ヒット曲を知ってるかい。
Chess Recordsの音源を聴くと、Willie Dixonがベースを弾き始めてから、あなたもドラムでいろいろな実験をできるようになったように感じるのですが。
場合によるね。Chessの録音には私がインプロヴァイズして作り上げたビートがたくさんある。ただのストレートな1234じゃないやつがね。「The Watusi」って曲を覚えているかな。あれはその一例だ。ちなみに、録音を終えたあと、あの曲に合わせて新しいダンスを作らなければならなかったんだ。ちょうど巡業に出ようというタイミングだったから、それぞれの劇場で観客がダンスできるようにしてやらなきゃならなかったんでね。
それがWatusi danceの由来だよ。
Willie Dixon以前の話だと思いましたが、そのころはバンドを一つにするために苦労があったようですね。Willieが入ってからは、彼は自分の曲に対して自分で采配を振るったのでしょうか。
そうかもね。彼はたくさんの曲を作ったし、多分その中の多くでベースを弾いていたろう。しかし、そこまで仕切っていたとは思わないけどね。あれは単に、すごいベース・プレイヤーだ。それが全てだよ。ものすごくできる、ね!
アレンジも多くやっていたな。ものすごく優秀なアレンジャーでもあったんだ。その辺に座って、何かを聞いては、「違う、違う、待った。お前はこうやって、あんたはこうやんな。もう一回やってみよう」とくる。それでみんなやり直してみるんだ。彼と私はずいぶんたくさん一緒に仕事をした。例えば「Walkin’ The Blues」という小曲とかね。その時は、スタジオにドラムセットを持って行ったのに、結局全く使わなかった。
平らな木の板をスタジオの床に敷いて、タップダンスに使う金具を買ってきた。それで歩いたんだ!床の近くにマイクを置かせて、何回か試したよ。ドラムにエフェクトをかけるのはやってみたんだけど、ドラムで誰かが歩いているような音は出せなかったんだ。
そう、Willie Dixonは台詞を入れるのをやってた。「ああ、疲れた。でも俺は歩いてる」ってやつをね。私はその後ろでドラムを叩いていたが、「ダメだ、歩いてる音になんか聞こえない!ドラムはドラムだ!ちょっと待ってな」と、靴屋にtapを買いに行ったんだ。
これは私のアイデアさ。タップダンスは少しはやったことがあったが、そんなにうまくはないんだ。けど、私たちはやった。音楽に合わせて、clump clump clumpって歩いたのさ。録音が終わったとき、みんな転げ回って笑ったよ。ドラムは使いもしなかった。文字通り「Walking The Blues」したわけさ!俺と俺の靴でね。
ブルース・バンド、ジャズ・バンド、あるいはスウィング・バンドでドラムを演奏するうえで、アプローチの違いはあるのでしょうか?
ない。まったくないよ。私が思うに、ドラマーはーもし、ドラマーを名乗るのだったらーすべての音楽について知ってなきゃならない。ひとつのジャンルに固執して、他の音楽をやらないのではダメなんだ。それは自分を制限してしまう。何か他のことが本当にやりたくなったとき、やり方がわからないからできないのでは困るだろ。私の場合、色々な場所に旅しては、学びを深めたよ。
1967年に、アフリカに滞在したことがある。Junior Wellsのバンドで行ったんだ。その時もたくさんアフリカン・ビートを覚えてきたよ。アフリカの学校に行って、トーキング・ドラマーと一緒に演奏したんだ。
またアフリカに行きたいと思いますか?
oh man.行きたいよ。wellsのバンドでは、3ヶ月かけて西アフリカ中をツアーして回ったんだ。国務省の人と一緒にね。国連に入ることになっていた、New African Nationの全部の国に行った。マウマウ蜂起の直後のことだった。そんな折、アメリカが送った使節団の中に我々のThe Junior Wells Blues Bandもいたんだ。
私の人生で一番うきうきした経験だった。なにしろ「ドラムの国」にいるんだ。両の目と、耳、指を総動員して、何が来ても吸収してやろうと備えていたね。
10年、15年と演奏してこられたとき、ミュージック・ビジネスの様相は当初に予想していたようなものでしたか?
うーん、ノーだ。ミュージック・ビジネスは常に変化しているよ。それに合わせて行けるように学んでいくんだ。それがうまくいってるときに、金をためておくんだな。何事も同じままということはありえない。その辺は利口でなきゃいけないね。
それと、そこらには音楽以外にたくさんの落とし穴がある。酒浸りになるかヤク中になるか、なんでもいいけど。そういうやつが最終的にどうなるかというのも見ることになる。私は大麻(smoke。タバコかも?)はやらない。破滅のもとになるからだ。私は何も吸っていたことがない。酒も飲まないよ。昔は飲んだけどやめたんだ。もう10年以上は、まったく飲んでないね。
私はLittle Walterに会ったことはもちろんありませんが、ものの本を読むと、彼などはかなりの酒飲みだったと思われるのですが。
だいたいのミュージシャンはたくさん酒を飲むよ。そしてそこにはそれぞれの理由がある。しかし、酒を飲むのが必須だとか、それがなきゃ生きていけないなんて言うつもりはない。
この仕事をするのにこれがなきゃいけないなんてものはないよ。そんなものは何も必要ない!仕事のことをよく知っていれば、クラッチなんか必要ないんだ。
酒を飲みすぎるミュージシャンとバンドをやることについてはどう思いますか?
私は気にしないんだ。そこがポイントだ。自分がやらないとわかってることを誰かがやってたところで困らないよ。
バンド全体のサウンドには全く影響はなかったのでしょうか?
Yeah.私はどんなタイプが来ても混ざることができるし、問題ない。私は私のやるべきことをやるまでで、それだけさ。私はみんなとうまくやれるし、偉そうにしようとは思わない。
誰かが酒を飲みたいからと言って責めたりしない。それはそいつの問題だからね。会ったら、「やあ!調子はどうだい」というだけだよ。
私は人がやってることについてくよくよ気にしたりしない。私はドラマーで、自分の仕事はわかってるからね。メカニックが車の直し方を知っているのと同じさ。私はドラムの演奏の仕方を分かっているし、それが仕事なんだ。
たくさんの奴らが落ちぶれていくのを見るのはこたえるよ。彼らの酒や薬をやめさせる方法があるなら俺はやる。でも、そうでなければ、何も私にできることはないんだ。
ドイツで軍楽隊にいたころの教訓がもう一つある。あそこにも優れた先生がいたものだ。
ある先生は、もう何年コンサートをやっているかわからないくらいのベテランだった。でも、彼は言うんだ。音楽をやっていて嫌になることといえば、24時間音楽をプレイして、ほかに何も知らないってことだと。
プレッシャーを解放するためには、ほかのこともやらなきゃいけない。音楽以外のことも学んで、リラックスできるようにしなきゃいけないんだ。そうでなきゃ、余裕を失っていくからね。
あなたの場合は、ほかに何を学んだのでしょうか。
アートだ。絵を描いたり、写真を撮ったり。写真は1949年ごろからずっとやっているね。なんでも撮るよ。膨大な量を撮ったね!外に出て写真を撮るのが好きなんだ。昔はパーティで撮っては、あちこちでちょっとした写真を売ったりしたものだ。ギグに行ったら、休憩時間に撮って売るとかね。それから海外に行くようになって、動画なんかも撮るようになった。
絵も何枚も描いてるよ。
つまるところ、他のことをするのが大事なんだ。24時間音楽のことを考えて縛られないようにね。緊張して、プレッシャーを逃す方法がないような状態になると大変だ。そういうやつはたくさんいるがね。とにかくプレッシャーを逃すための弁が必要なんだ。
たくさんの巡業を行っていた時、一番大変だったことはなんでしょうか?どのように正気を保ったのでしょうか。
んー、本を読むか、写真を撮るか、そんな感じかな。映画を見に行くこともあったよ。私はただ座って、暇を持てあまして親指を回してるなんてことはしない。そのくらいなら手首を鍛える練習をしているね。
巡業生活中は結婚されていたのでしょうか。
いや。私が結婚したのは64年のことだ。それから離婚したが。今の妻とは愛し合っているし、一緒に楽しく過ごしているんだ。昔のように旅に出ることは少ないね。当時はほとんど家を空けていたな。何しろアメリカ中を回ったし、海外も旅したからね。
あなたの生活の中にスピリチュアルな要素はあるのでしょうか?それは大事なものでしょうか。
Well, yeah.私は神を信じている。毎晩祈りを捧げているし、日ごとの糧に感謝しているよ。ただ毎週通う教会というのはないんだ。仕事の都合上、いつも移動してなきゃいけないからね。
今、新しいジャズ・バンドを持たれていますね。
ああ、一緒にやるジャズ・グループがあるよ。誰かに呼ばれたら一人で仕事に行くがね。
そのグループの編成は、ドラム、ピアノかオルガン、ベースとサクソフォンだ。
ドラムの生徒はとっているのでしょうか。
いや。前は少し教えたこともあるが。私はたくさんのブルース・ドラマーにたくさんの小技を教えたが、誰かについてきちんと教えたことはない。単純な話、私はいつも外で働き通しだからね。教えるのはいいけど、時間がないんだ。
クリニックは行わないのですか?
クリニックをやる理由はない、時間がないからね。他のことをやっているから。今日はこっちにきて写真を撮るか、野球でもやるかってところで。私は常に忙しくするようにしているんだ。ただ座って何もしないでいるなんてことはできない。常に頭をアクティブにしておかなきゃならないからね。
あなたの恐るべき量の経験を伝えられることを考えると、クリニックを行わないのはとても残念ですが…。
私はコンサート・ツアー中に何度も座談会のようなことはやったよ。街角なんかに出るとたくさんの子供が寄ってくるから、そういう子達と話すんだ。海の向こうでも、南部でもね。一度、Charlie Musselwhiteとロードに出た。テネシーのビッグなTVショウやラジオに出るためにね。そこにいた35人か40人の子供達と話をしたよ。例えば「こんな風にスティックを持つのはどうかな?」みたいな質問に、それぞれ私の意見を伝えたりしたよ。
ーマッチド・グリップとトラディショナル(レギュラー)・グリップではどちらがお好きですか?
私はトラディショナルで叩く。なぜならそれがうまくいくからね。しかし、ドラムスティックをマレットみたいに持つ(マッチド)人もいるよね。私見では、マッチドはまた違ったサウンドと違ったビートになるように思う。つまり、よりハードな。あれだと十分にソフトにならない。私は自分のやり方ートラディショナルーがいちばん好きだ。技術的にも、力加減もね。「ズバン!ズバン!」なんて感じにはそうならないから。
ドラムというのは正しく演奏すれば美しいサウンドを得られる、美しい楽器なんだ。そしてドラムはきちんとチューニングされていなければならない。それぞれのサイズからちゃんと違う音がするようにね。
バンドで演奏中、急に他のメンバーの音量が上がった時、ドラムがフラットしていたらついていけない。ただドボン(plop)って、音程(tone)のない音がするだけだ。でも音程(tone)があれば、バンドが盛り上がってもばっちりついていけるのさ!
あなたはどのようにチューニングをするのでしょうか?
私は左から右へとチューニングする。つまり二つのタム・タムがそれぞれ違うトーンになる。さらにフロア・タムはいちばん低いトーン。いちばんハードで、フラットなトーンはバスドラムになるだろう。スネアは中間のトーンだ。二つのタム・タムの間の音だね。だからスネアのワイヤー※日本で言うところのスナッピーだが、本国ではそういう呼び方はしないらしい。を外せば三つのトーンが得られる。タム・タムと、その間のスネアでね。
私はドラムの中に何かを入れたりしない。ドラムの中に何かと詰め込みたがるドラマーがいるけど、全く理解できないよ。レコーディング目的ならいいんだ。ドラムに詰め物をするのは。でもプレイするときに入れるのは無しだ!全てのトーンを殺してしまうだけだ。そんなことをしたら、自分が何をプレイしているのかわからなくなるだろう。俺はドラムになんであろうと外部の物をつけるようなことはない。唯一の例外が、バスドラムにつけている、Dr.Schollsのパッドくらいなものだ。ビーターで穴を開けるようなことがないようにね。それがすり減ったら交換すればいいんだ。
あなたは、木製のビーターを使われているのですか?
ハード・フェルト。
あなたは演奏を始めて以来鞣革(calfskin)のヘッドを張られていますが、プラスティックのヘッドに切り替えるのは問題ありませんか?
いや。革の方が好きなんだ。革のヘッドは少しシャープな音になる。プラスティックは天候が安定しないような時にはいいんだが。小雨が降ったり、蒸し暑いような時には、革のヘッドは上がったり下がったりして調子が悪いんだ。プラスティックを使えばそういう問題は起きない。チューニングしておけば、そのままさ。
ドラムのうちチューニングするのは打面だけだ。叩かない面については、チューニングはしない。バスドラムだったら、プレイする方の面を緩めたら、それで終わりだ。ボトムのヘッドは全部ちゃんと締めておくんだ。チューニングはトップだ。ボトムの方をチューニングしたりはしない。ボトムは締めたらそのままだ。トップは、チューニング次第。緩めても締めてもいい。
ブルース・ドラマーを聴いた人々が、「あまりうまいドラマーじゃない」と思うようなことはあると思いますか?
ああ。思うよ。一度McCormick Placeでプレイしたことがある。大きなショウで、私はリハーサルしていた。私はブルースのドラマーとして知られていたわけだが…
ある時リハーサルに入ると、男が楽譜を渡してきた。それが間違ってたんで、ペンを手に座って言ったんだ。「ちょっと待ちな、これ間違ってるぜ」。すると、「どういう意味だ?」なんて返ってきたんで、「ほら、小節が足りないだろ。5小節しかない」と説明してやった。そしたら、俺を見て「あんた譜面が読めるのか?」とくる。「そりゃそうだ、読めるよ!」というと、「あー、読めるとは思わなかったんだ。ブルースだけやってるもんだと」とさ。それで言ってやったよ。「そりゃ、あんたが知らないだけさ。"ドラマーです。なんでもできます。"なんて看板持ち歩くわけにもいかないだろ。譜面の読み書きくらいできるさ。」
あなたの時代のブルースドラマー、例えばOdie Payne、など、全員が読めたわけではないですよね?
おいおい!勘弁してくれよ。Odie Payneは俺の親友だぜ!私たちは一緒にRoy Knapp Schoolに通う仲だったんだ。Marshall Thompsonも、みんな!Wilbur Campbellだってそうさ、Wilbur Campbellはそこらの奴には負けないくらいザイロフォン(木琴)がうまいんだ。Lionel Hamptonとか、そのあたりとも張るぐらいにね。Wilbur Campbellはやるよ!ヴィブラフォンをやってみな。Wilbur Campbellに頭から食われちまうよ。
60年代に、The Rolling Stonesのようなイギリスのバンドが渡米してきましたね。彼らには会ったことはありますか?
ああ。彼らがこっちに来る前に会ったことがあるよ。ビートルの連中も、The Rolling Stonesも、みんな会った。
彼らは、あなたの演奏を見に来たのでしょうか?
その時はBeatlesなんてなかったんだ。その時の彼らは全然有名なバンドではなかったから、ただ見に来た若い奴らくらいなものだった。彼らは私たちのやっていることを聴いたけど、自分ではできなかったんだ。やろうとはしたようだが。それで、イギリス流にやってみたわけだ。数年後に起こったことは知っての通り。連中はアメリカに来て、私たちと同じ音楽で何百万ドルも稼いで、時の音楽をすっかり変えてしまった。
そのことについてどう思いますか?
その時は気にしなかった。ただふしぎだったね。彼らはここ(アメリカ)に来て大儲けできたけど、私たちがあっち(イギリス)に行ってできるのは、せいぜいベーコンエッグを作ることくらいだ。当時、私たちの音楽や私たち黒人の扱いというのはそういうものだったからだが。
私たちがプレイしてもBeatlesやらのようにお金や注目を得られなかった。私たちはEd Sullivan Showみたいな大きなショウに出たことはない。Ed Sullivanは私たちに興味を持たなかったからだ。でも、The Beatlesが来て、同じことをやったとたん、みんな「Ah,イギリスから来たバンドが何かやってるぞ」と注目するし、マネー・メーカーはBeatlesに飛びついた。今じゃBeatlesは億万長者さ。かたや私たちは、いまだにベーコン・アンド・ビーンズを作っているんだがな。
どうしてだと思いますか。
私たちの音楽や私たちの扱いというのはそういうものだからだ。それだけさ。偉大なミュージシャン―黒人のミュージシャン-は素晴らしいことをやっているが。私たちが始めたもので、ほかの奴が儲けるんだ。
活動初期において、あなたはきっぱり黒人聴衆だけを相手に演奏していたのでしょうか。
ああ。初めて南部にツアーしたとき、お客のほとんどは黒人だった。だが、そこには大立者の白人プロモーターがいた。私たちは黒人のお客を大勢呼び寄せたから、白人プロモーターは私たちに目を付けて、これまでみたいな小さなホールじゃなくて大きな講堂なんかでやらせるようになった。そんなところでプレイするときはたいてい、メインフロアは白人席で、黒人席は2階とかバルコニーだった。
そういうとき、どのような気持ちになりましたか。
南部で何かをするのは初めてだったから、本当に複雑な気持ちになったよ。何を考えていいかわからなかったし、多くのギグで怖い思いをした。私たちみな、何が起こるかわからなかった。黒人は黒人の領域におとなしくおさまってなきゃならないような場所だ。スタジアムでやるときは、いつも自分の行動やらなにやらに気を付けていなければいけなかった。彼らには演奏中、お客と接触するなと言われていたから。「すみませんが、バックステージには許可された人以外入ることは禁止されてます」なんて言ってね。私たちはいつもバックステージで待たされていた。
これはアラバマでも、ジョージアでも、テネシーでも、ミシシッピでも、テキサスでも同じことだった。一度Gene Autreyのために彼の牧場で演奏しさえした。ルイジアナでは大勢の白人と黒人の聴衆を相手にプレイした。50年代というのはそういう時代だった。
差別なんてなかったなんて言う奴は嘘つきさ。こういうことを私たちは身をもって経験したわけだから。
私たちは大きな会場でプレイした。小さなところではやらなかった。メンバーは4人しかいなかったから、ピアノ・プレイヤーを入れた。それからサクソフォンも。その頃はFat Jacksonという男がサックスをプレイしていた。
バンドの一晩あたりの稼ぎについて聞いてもよろしいですか?
ふむ、Little Walterバンドのときは給料制だったからな。Walterがいくらもらってたかは知らなかった。ただ、その時は私たちは一晩75ドルもらっていた。その中から自分たちの経費は自分で持った。当時はそんなにものが高くなかったんだ。今だったら一泊50ドルとか60ドルの宿が2,3ドルで泊まれたりね。
当時のバンドでコンサートを録音することはありましたか?
いや。レコーディングは全てスタジオで行っていた。私たちは5着のステージ衣装を持っていた。靴から帽子までね。最近の奴らみたいに全員色の違うジーンズをはいてるようなことは無かった。
Butterfield Blues Bandの面々との接点はありましたか?
ああ。60年代には彼らの全員と知り合いだった。なぜなら一緒に録音したからね。Seigel/Schwall Blues Bandの最初の録音もやったしね。Butterfield、Bloomfield、Charlie Musslewhite…白人バンドのみんなと録音したよ。
彼らのバンドは好きでしたか?
ああ。あいつらとはいまだに親交がある。彼らがこの辺りに来たときは必ず寄って、「やあ、Below.調子どう?」と挨拶しに来るよ。Charlie Musslewhiteからは定期的に連絡が来るしね。
ブルース・バンドでドラムソロを演奏する機会はありましたか?
ああ、ドラムソロと思われるかはわからんが、良いブレイクをプレイしたことがあるよ。私の代名詞のようなね。「Off The Wall」のレコードを聞いたことあるかい?あれは私が初めてソロを入れた録音で、尚且つ唯一そういう機会があったものでもある。
ドラムソロをとるのは好きですか?
機会がある分には好きだね。
あなたはシンガーにとって最高の伴奏者です。シンガーをバックアップする上で重要なことを教えてくれませんか?
いろんなグループとやる上で主にやっていたのは、彼らが何をやっているかを学んで、一緒にやろうとすることだね。グループ・シンガーの多くは、自分たちだけで歌う時のノウハウを持っているものだ。けど、スタジオに入ってさあ録音となるとそれまでとは大きく違う。彼らは伴奏にバンドがついて、その上で歌うってことを理解しなきゃならない。バンドとグループで一緒にならないと、ブレイクがうまくいかないなんてことも起こる。自分たちだけでリハーサルをやるグループと、トリオとかでやってる連中とでは要領が違うんだ。
60年代にはそういうグループもリズムセクションと一緒にやるようになったんだけど、その前は自分たちだけでやってたんだ。Mills Brothersみたいにね。R&Bグループが出てきてから、シンガーたちもリズムセクションと一緒にやることを覚えないといけなくなった。自分たちだけで歌うぶんには聖歌隊の合唱をやるようなもので、バックアップは必要ない。けどスタジオに入ったら状況は変わってくる。なぜならドラマー、に限らずバックのメンバーに、どんなフレーズを入れるかとかこのグループは何をするのかとかをまず理解してもらわなければいけないからね。大変さ。
だからたくさんのグループはうまくて強力なギタリストを連れていて、ドラマーに何をやってほしいか説明させていたものだよ。そうして初めてグループがリズム・セクションとうまくやるようになるわけだ。つまりこれがロックンロールグループの始まりだね。5人のシンガーと、それをバッキングする3ピースのリズムセクション。
ロックに欠けていて、ブルースには常にあるものの一つとして、ダイナミクスの活用が挙げられると思います。
ああ。R&Bはロックンロールのフォーマットを作ったが…今はメンバー全員がラウドにプレイするためのものになってしまったよね。彼らは自分のパートを聞かれたがっているが、それは間違っている。
5ピースのバンドがあるとして、その全員がラウドに演奏していたら、音楽は生まれてはこない。音楽をプレイするためにはソフトにやって、ブレンドしなきゃいけないんだ。ケーキを焼くようなものだよ。材料を少し、また少しと入れて、混ぜてやる。それが上手に混ざればきれいなケーキのできあがりだ。音楽でも同じこと。そこのところがわからないやつが多いのはそういうわけさ。この家ぐらい大きなアンプを持っているなら、そんなにラウドにする必要はないんだ。
Junior Wellsと一緒に巡業していた時、カリフォルニアでJefferson Airplaneやらのたくさんのロックグループを観たんだが、あんまり音が大きいので壁が砕けるかと思ったよ。みんなその調子だから、医者は耳が痛くなった人の救護でフルタイムで働いていたよ。いまだにそんなことをやっているよね。
大きい楽器を持っていても、小さい部屋でまでラウドに演奏する必要はないんだよ。もし野球場とかでやっていて、運営のやつがもっと聴こえるようにしろというなら少しボリュームを上げてもいいが。しかし、音がかき消えてしまうようなことがない、小さな空間では爆音でやる必要なんかない。そいつはただ、みんなを苦しめてるだけさ。
ラウドにやりすぎてるかぎりダイナミクスはプレイできない。すでに上がり切っているところからさらに上がることはできないからな。ブラシでプレイする時も同じだよ。スティックでしか練習したことがないのにブラシでプレイなんてできないだろう?ブラシが何かもわからないはずだ。いつもスティックでやっているやつには、ブラシの音はソフトすぎて聞こえないということになる。マレットもそうで、使ったことがなければそのタッチはわからないだろう。マレットはくぐもった音だ。聞いたことがなかったら使うこともできない。
それぞれがどんな音なのか、さらに、どうやったらこもらせたり、トーンダウンさせられるのかということを知っておかなきゃならない。それがトーンを知っているということだからね。
サウンドを聞いて、さらにビートやそのほかのものを聴いて、音楽をきちんとブレンドさせなきゃいけない。ただ座ってスティックを握って「バン!ビン!バン!バン!」なんてやってもだめさ。それではなんの意味もない。ブレンドできるドラマーは凄いドラマーだよ。だからMaxやBlakeyやその他のcats(ジャズマン)は、自分のプレイをしながらもあんなにもビューティフルにサウンドするんだ。彼らは自分のプレイをブレンドする。
彼ら素晴らしいドラマーたちに感謝している。私はArt Blakey, Max Roach, Gene Krupa, Buddy Rich-といったビッグなドラマーたちを観て、彼らが何をやっているのか気づいた。彼らは座ってキックしてプレイしてるわけじゃない。彼らはプレイもキックもするけど、何しろブレンドしているんだ。Jo Jones! My God! Cozy ColeもSlam Stewartも皆そうだ。座って箱でも蹴ってるような人はいない。
あなたがプレイするとき、リズムを考えているのですか?それともメロディを?
いつもメロディだ。より包括的に、いろいろなタイプの音楽を聴けていれば、より良いアイデアやコンセプトが浮かんでくるはずだ。ソフトなものからラウドなもの、異なるリズム・パターン、ビート…と、音楽の蓄積を増やす。そうしたら、それを今度はプレイするときに使っていけばいいんだ。
たとえばブルースやジャズを聴いてて、ドラマーがすごいプレイをしたとする。
「Wow,man.なんてすごいんだ。どこからこんなプレイが出てきたんだ?」と思う。
それを掘り下げていくと、「ああ、"Sheik Of Araby"から取ってきたんだな」とかなんとかわかってくるわけだ。そうなったら自分でも使えるようになるだろ。それが何なのかとか、どうやって入れてやればいいのかとかがわかるわけだから。
ドラマーがフロントに出ることはない。バンドでやる限り、ドラマーはみんなの後ろに控えているものだ。軍隊で例えるなら、常にだれかの援護をやってるようなものだ。偵察兵が前に出ていったら、後ろの守りが必要になる。その守りがつまりドラマーだ。
後衛が前に出ていったらどうなる?部隊は壊滅だ。さっさと後ろに戻って、キックを踏むんだ!
良いドラマーだったら常にリスペクトされるし、みんな認識してくれるよ。バンドで一番大変な仕事の一つをやっているんだから。
全員をひとつにまとめあげることで、全部の要素を引き締めて、良くサウンドするように押し出してやらなきゃいけないんだ。
今ではあなたはご自分のバンドを持たれています。数々の優れたバンド・リーダーから学んだことから、何かを活かすようなことはありますか?
一緒に仕事をする機会のあったすべての人から何かしらを得たよ。Memphis Slim,Little Walter,Junior Wells,Buddy Guy…。すべての経験から、それぞれ違うもののやり方を学んだんだ。
そして、彼らが教えてくれたものを、自分のためにやってみたかった。
彼らが優れたバンドリーダーたる所以は何でしょうか。
多くのバンドリーダーが、その周りのミュージシャンによって形づくられている。彼らの陰の腕利きがいなければ、彼らはgreatにはなれなかった。
優れたバックがいれば、greatになれる。すべてのシンガーは自身が強力でなければならない。
しかし、バンドリーダーは―歌はやらず、プレイをするだけだったら、自分で強力であるか、さもなければ優れたバックを見つけて、良い形でサウンドさせてもらえるようにしなきゃならない。
チームワークだ。チームを結束させること。みんなが協力できているならそれを保つだけだ。そういう形で協力できれば、彼らはいいプレイができる。バンドの全員がリラックスできてるようなバンドはすごくいいバンドだ。バンドが緊張しすぎていると、音楽は生まれてこない。それは、聴いて実感できるだろう。
どうやってリラックスするかを知ってないとパンクすることになるぜ。man.仕事をしに来るたびに頭が痛くなっちまう。楽に、リラックスして仕事することだ。そうしたらもっと楽しめるだろう。
それから、一緒に仕事するやつをほめるのを覚えることだ。「Hey man,あんたがやってたあれもこれも、すごくよかったぜ!」っていうときの言い方を知るんだ。これはやったほうがいい。効くよ。仮に彼らが間違ってるなとわかっても、決して非難しないことだ。今日非難した相手が、明日にはものすごく良くなってるかもしれない。だからしかるべき時に口を閉じて、しかるべき時に開くことを覚えるんだ。
態度は非常に大事ですね。
その通り。誰かをほめて害になることなんてないんだ。ひょっとしたら次回はちょっと良くなってくるかもしれないし。そいつがうまくやってきたら、あんたも良くサウンドできるようになるんだ。覚えておきな。そいつとあんたは同じグループでやるんだ。彼が良くプレイしたら、あんたのプレイもちょっと良くなるんだ。そうなっているんだよ。彼があんたが来るたびに怒っていたら、バンドとしてサウンドしなくなる。
あるいは、「あいつがまともにできるようになってきたら、こってり絞り上げてやる」なんて思ってるならやめたほうがいい。そいつはフラストレーションだ。よくないよ。
あなたのプレイを聴いたことがない人に向けて、あなたのドラミングを代表するようなアルバムを何枚か選んでくれませんか?
多くの私のプレイが知られていないと思うよ。なぜなら私はそれはたくさんの人と、たくさんの違うスタイルで録音したからね。
いくつかのベストな仕事をLittle Walter,Bo Diddley,Chuck Berry,The Moonglowsと残した。あとDinah Washingtonとも録音した。一番新しいデカい仕事はGolden Hits of Louis Jordanだな。それはヨーロッパで録ったんだが、私の名前はクレジットしてくれなかったんだ。誰か別の奴の名前を載せているよ。
それでは、Fred Belowの次の5年間の目標はなんでしょうか?
なんでも、エヴリシングだ。私は表を作って、そこに自分をピン留めするようなことは好きじゃないし、いまではやりたいことは何でもできるんだ。私はただ自分で楽しみたいし、すべてをプレイしたいんだ。どんな仕事が来ようと、私はプレイできるよ。
私は私がやりたいものはプレイできたし、自分のスタイルでプレイするんだ。つまり、リラックスして、ハッピーなスタイルで。
プレイしているとき私はハッピーだ。いつも笑顔だよ。演奏するのがただ好きなのさ。
by Scott K. Fish
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