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翻訳:Odie Payne,Jr. インタビュー

Odie Payne,Jr.は遅めのペースで、疲れた様子で話す。背中が痛み出すと、さらにゆっくりと言葉をつなぐようになる。私がインタビューしたのは、彼がPee Wee Crayton、Eddie "Cleanhead" Vinson,Lowell Fulsom,Margie Evansなどのバックをこなした演奏の翌朝である。

 ふつうの健康なドラマーであっても相当な激務にちがいないギグだが、背中の痛みを抱えてなお、彼には喜びのようだった。60歳の彼だが、仕事を断ることはほとんどない。「演奏している間は痛くないんだよ。来るのは後からだ。」と、少し笑いながらいう。「あんなCatsと演奏できることは長いことなかったんだ。俺が憧れてきた人たちだ。そんなチャンスをフイにできるか?no sir.」
 さて本日、Payneは楽に歩いたり話したりしていた。背中の痛みで今日のリハーサルを逃すことがないように体力を温存しながら。彼にとっては、演奏できないことの方が背中の痛みよりも辛いのだろう。

あなたのシカゴ・ブルース・ドラマーとしてのキャリアの開始は、1940年代後期にもさかのぼります。これはジャンルや場所を問わずとても長いですね。

 ああ。そうだろうな。俺が最初にナイトクラブで演奏したのは1949年のことだから。その時はTampa Redと一緒だった。

それではあなたがドラムの演奏を始めた頃の話を伺いたいと思います。

 Dusable高校でのことだ。あれはドラマーには素晴らしい学校だった。いや、全てのミュージシャンにとってというべきか。何の楽器をやっていようとだ。最高の先生もいた。Walter Dyett先生※1はとても情熱的で、 彼の陰口をいう人なんか一人もいなかった。とても尊敬されていたよ。彼が集会場に現れると即座に皆静まり返ったものだ。彼は時として苛烈で、人を見つめるだけで泣かせられるくらいだったがいい先生だった。皆に尊敬されて、評価されていたんだ。

プロのドラマーになりたいと思ったのはその頃のことでしたか?

 実際はもっと前だ。さらに昔、俺は学校の机を指で叩いてドラムの基礎を覚えた。空の机っていうのは指で叩くとなかなかいい音で鳴るんだぜ。先生が教室を出たらいつでも演奏開始だ。そしたらすぐ、クラス中がジャンプし出す。それで毎回先生が戻って来て俺を捕まえるんだ。クラスの様子を見るや、「Odie Payne, Jr.出なさい!」ってな。でも、とうとう卒業する時、彼女は「いつかあなたがドラマーになることを祈っていますよ」と書いてくれた。で、その通りになったわけだな。

Tampa Redとはどのように出会ったのですか?

 メトロポリタン劇場の右隣にレコード屋があってな。サウスサイド・シカゴでは一番の店だった。毎日ドアの外のスピーカーから音楽を流して道行く人に聞かせていた。学校から帰ってると聴こえてくるんだ。"Let Me Play With Your Poodle"って曲は一生忘れないね。歌詞を聞いたらゲラゲラ笑ってしまうよ。まさかそれを歌っていた男と仕事をするとは思わなかった。つまりTampa Redとな。あれは思い出深いよ。

あなたのキャリアは最も刺激的な時代と共に始まりました。第二次大戦後、数多くの黒人ミュージシャンが南部からシカゴなどの都会に渡ってきた時代です。音楽は街中にあふれていたのではないでしょうか。

 Oh yeah.上京してきたブルース・ミュージシャンが、自分の音楽のルーツも持ってきたんだ。南部から電車に乗って、シカゴの真ん中へ直送でな。街中若いミュージシャンだらけで、仕事と宿を探していたよ。

当時はどんなドラムキットを使われていたのでしょうか?

 あー、名前はあんまり気にしないんだ。SlingerlandやらLudwigやらのごたまぜで―手に入るものならなんでも使ってたよ。いまのドラムは部品がでかくて重いよな。なんでかはわかってるが。最近の若いやつらは太いスティックを野球のバットみたいに使うからなあ。あいつらにはトンカチでも使わせてればいいと思うよ。

あなたはChess Recordsでたくさんの録音をされています。どのような経緯で参加し始めたのでしょうか?

 最初にWillie DixonからLeonard Chessに会ってみろって呼ばれたんだ。Chess RecordsはロックンロールでいうところのSun Recordsみたいなものだな。
 当時Mr.Chessはドラムをとにかく強く叩くよう言ってきたんだ。ひどくハードにね。「Hit it! Hit it! スティックをぶん回して叩け!」って叫んでたよ。正直バカバカしいと思ったが、言う通りやった。レコードではそれが良かったんだろう。
 おれはいつも自分をリスナーとして捉えている。ほかのメンバーが何をやっているかを聴きたいんだ。それがドラムに反映されるからね。常に、どんな曲だろうと。でもChessとだといつもハードに叩かなきゃならないんで、おれはそのうちスタジオの壁が崩れるんじゃないかと思ったね。

自身のスタイルを説明するとしたらどんな言葉になりますか?

 比較的シンプルなスタイルだと思う。ドラムに関していえば、ブルースはシンプルにやるものなんだ。でもブルースをやるドラマーだったら、スティックで物語を語れなきゃならないんだよ。ブルースはシンプルだ。でも完結している。ドラムとしては静かなスタイルといえるだろう。まあ、Chessのスタジオにおいては別だがね。
 なぜかというと、ブルースでは言葉が重要なんだ。みんなシンガーが何を言うのかを聞きたがる。それなのにでかい音で叩いて歌を潰してしまったら、目的をはき違えてることになるわな。自分をコントロールしなきゃいけないんだ。
 ブルースは感情的な音楽だから、ラウドに、ヘヴィに叩きたくなるのはわかる。が、それでも自分を抑えて、シンガーに寄り添わなきゃならない。ホーンやギターの出番になったら、ドラムで押し出してやってもいい。でもピアノの時はダメだよ。言ってる意味わかるかい。

電子ドラムを叩いたことはありますか?

 ないね。あるとは言えない。でも今、本物のドラムに勝るものがあるとは思えない。そうだろ?ピアノにしたって同じだ。電子ピアノを弾いたっていいが、本物の―アコースティックな音にはかなわない。その電子ドラムとやらでスウィングするのは難しいだろう。何のフィーリングも聞こえてこないからだ。ドラム・マシンでブルースをできるかだって?そんなわけがないだろう?さっきも言ったようにブルースは感情的な音楽で、機械に感情はないんだから。人間のタッチによるアクセントを、機械がつけることはできない。電気サイドマンなんか、プラグを抜いたら機能停止だぜ。

Muddy Watersとの仕事、付き合いはどのようなものがありましたか?

 Muddyと会って演奏したのは、変な出来事だったよ。無数の人がMuddyから聴いたものを土台にスタイルを作り上げている。一緒に演奏はしたけど、彼に近づくことはなかった。なにか大きな拒絶反応のようなものが二人の間であったんだ。それが実際何なのかはわからんが。

あなたはChuck Berryとも演奏されたと思いますが。

 ああ。でも俺は、Chuck Berryよりあんたの方をよく知ってるくらいだよ。―あるときChessで一緒になった。奴は両脇に女の子を連れていたな。俺はドラムのセッティングをしていた。あいつは通りがかったけど挨拶もしなかった。あいつは誰にも何も言わず、ただ仕事をしていったよ。一度も話したことはないね。

あなたが共演された人の中で、Elmore Jamesとは最も長く一緒にいたのではと思います。これは正しいですか?

 ああ。そうだな。Jamesとは何年か一緒にやったよ。あいつと"Dust My Broom"―やつの最強の曲だな―をやってた日々は良かったよ。奴には語るべき物語があった。奴を好むやつもいればそうでないやつもいた。ブルースが万人のためのものではないというのはそういうことだ。経験したことがなければ、わかることはない。わかることはできない。ブルースは苦難とか、喪失とか、誤解についてうたう。おれはドラマーにリックを教えることはできるが、フィーリングを教えることはできない。自分の居場所と、自分のフィーリングは自分でブルースの中に見つけるんだ。

あなたはドラッグと酒に対してたいへん厳格だと認識しています。それらに囲まれながらにして、あなた自身が耽ることはなかった。これは本当でしょうか?

 俺は人生でビール一本しか飲んだことがない。この五年で空けたウイスキーの瓶はたかだか五本だ。ドラッグだと?そんなものは忘れてしまえ。飲まされそうになった時は、「オレンジジュースにしてくれよ」って言うんだ。ときどきは面白がられるか、責められることもあるがな。わかるだろ?社交的じゃないと思われるわけだな。でも覚醒剤なんかには興味がないんだ。俺はドラムをプレイするのに何かに頼ることはない。必要なものは全部自分の中にあるんだ。しかしドラッグと酒はいつもそこらにあった。たくさんのブルース・ミュージシャンが身を滅ぼしていった。一人ひとり名前を挙げることもできるが…やめておこう。誰の得にもならないからな。

あなたのドラム・セットアップについて教えてください。

 俺のセットアップは、ライド・シンバルひとつ。ハイハットひとつ。バス・ドラムの上にタムがひとつ。サイド・ドラムがひとつ。バス・ドラム。それにスネア。ベーシックだ。本当に基本的なものだ。まあ、カウベルは好きだがね。カウベルがないと寂しいぐらいだな。でもそれぐらいだ。ブルースをやるドラマーに必要なのはこれでそろってる。ほかの機材はエフェクトだ。基本があればそれで事足りる。ドラムを増やせばよくサウンドすると思ってるやつもいるが…ロックンロールではそうなのかもな。よく知らんが。でも、手足は2本ずつしかないし、やらなきゃいけないことはすでにあると思うんだがな。シンプルにしておけば、それだけうまくやれる可能性が増えるんだ。これはずっと俺の哲学だし、悪くないと思ってるね。

あなたの上々な生活、数々の思い出、毎日ドラムをプレイする喜び…以外に、あなたにとってブルース・ドラマーであることの意味はありますか。

 ああ。ブルースは、さっきも言ったように感情的な音楽だ。それは人々を惹きつけるってことを意味する。なぜなら人々というのは感情でつくられているからだ。世界中の人々に感情はある。どこの出身だろうが関係ない。だからブルースは世界で―俺が行っただけでも、ヨーロッパ、日本、南から、西、北まで―受け入れられてるんだ。可笑しいことだが、それだけ飛び回って演奏してるのにニューヨークには行ったことがねえんだ。この歳でやれるかはわからんが、一度は演ってみたいね。

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