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翻訳: Casey Jones インタビュー

Casey Jonesは1956年に、Little Richardを夢見てシカゴにやってきた。Little Richardこそが彼の関心事だった。しかしJonesはすぐシカゴ・スタイルのブルースに腰を据えることになった。「何ブルースでもよかった。とにかくものにしたかっただけさ」と彼は回想する。

 今日、Jonesはシカゴで一番多忙なブルース・ドラマーだ。Johnny Winterと録った2枚のアルバム―"Guitar Slinger"と"Serious Business"(いずれもAligator Recordsから)は、彼のクールで正確なバックビートを聴ける好例といえる。彼はできるときはいつでも自分のバンドでプレイするし、"Airwax Records"という小さな独立レーベルも運営している。さらに、自作の曲をいくつか録音することも計画している。
 Jonesと話したとき、彼はWinterとの仕事を終えたばかりだった。Jonesは活力にあふれ、プライドを持てるミュージシャンだ。機会が与えられれば一日で三つのセッションだってこなすだろう。それも毎日。「仕事がしたいんだよ」というときの彼の笑顔は、James Brownのそれを思い起こさせた―"I'm ready, able, and willin'"というわけだ。

50年代中ごろにシカゴに移住したのはどういった理由からでしょうか?

 ああ、俺の義理の兄貴が、シカゴでOtis Luke & The Rhythm Bumsってバンドをやっていたんだ。ドラマーが足りないというんで、ある日俺が呼ばれたんだが、ドラム・セットについては何も知らなかったんだよな。マーチング・ドラムしかやったことがなかったから。だけどシカゴに来てトライしてみたよ。ギグを通してな。わかるだろ。そうしているうち、グルーヴにハマってしまった。
 ほとんど問題なかったがハイ・ハットだけはだめでね。あれをちゃんと使うのにはずいぶん苦労したよ。そもそもハイ・ハットを持ってすらいなかったからな。バスドラム、スネア、シンバル。これだけだ。
 その頃は1週間に7晩、それぞれ違うブルース・バンドを聴きに行けたものだ。この街じゅうが活気にあふれてた。最近じゃそんなにたくさんのクラブはないよね。当時はサウス・サイドにたくさんクラブがあったものだけど、今も残ってるのはだいたいノース・サイドだ。その頃は、もっとバンドやミュージシャン同士競い合っていた。

あなたはAlbert Collins,Otis Rush,Jimmy Witherspoon,Johnny Winterとプレイされたと思います。ほかには?

 おお、そうだな―Howlin' Wolf,Magic Sam,Muddy Waters,Eddie Clearwater,Lou Rawls,Lonnie Brooks...その他いろいろだ。

Howlin' Wolfとの演奏はどのようなものでしたか?

 Wolfとは本当にうまくいってたよ。本当にね。彼がバンドに対してどういう(厳しい)扱いをしてたかという話は聞いたことがあるけど、そうなってもしかたないようなバンドだったんじゃないかね。わからないけどな。  Wolfは俺のことを"Long Hair"って呼んでた。俺はそのころ髪にパーマをかけて肩まで伸ばしてたからな。「OK,Long Hair, OK.(Howlin' Wolfの低い、ざらついた声を真似しながら)それじゃ始めよう、ビートに乗ろうぜ。※1」俺は彼が望むとおりに"Smokestack Lightning"をやった。おれがやりたいようにじゃなく、彼の要望通りにね。彼のやり方でやったんだ。そのために金を払ってくれてるわけだからな。まあ、そんな記憶があるね。

シカゴ・スタイルのドラミングと呼べるようなものは存在すると思いますか?

 ピンポイントで特定のスタイルを指すことはできるかわからないけど、シカゴ・ブルース・ドラマーはよりシャッフルに集中すると思うね。シャッフルはシンプルに見えるが、皆が思うほど簡単なものじゃない。とくに正しくやろうとしたならな。おれはあまりシャッフルにこだわるということはないけどね。俺はシャッフルも下手じゃないが、ドラマーにとってシャッフルをやるっていうのは相当な大仕事になるし、苦労の割に注目は得られないんだ。俺はソロをとるのが好きだ。やれと言われればいつでもとるね。

良いブルース・ドラマーになるにはどうしたらよいのでしょうか?

 何を、どうやって聴く(listen)かということを知るんだ。たくさんのドラマーが育って、たくさんのポケットを演奏したり、ロールなんかを叩いては注目されようとする。俺はラッキーでね、注目を集めるのに苦労したことはねえよ。(笑)だからおれは演奏にすべてを集中させられるんだ。
 でもブルース・ドラマーは、シンガーのことを知って、さらに理解しなきゃいけない。っていうのは、Albert Collinsとやるのと、Little Miltonとやるのとじゃアプローチは全然変わってくるんだ。とても違ってくる。ブルースには、一つのドラム・パターンや、一つのバックビートを押し付けるようなことはできないんだ。手袋みたいにフィットしなきゃいけないのさ。何をやろうと、いつやろうと、ブルースっていうのはここ(と、胸を叩いて)からくるもんなんだ。ステージでおれが笑顔で叩いてるのを見たら、この俺、son of a gunがハードでタイトにプレイしているのがわかるはずだ。

あなたはいまどういうキットを使われていますか?

 Ludwigのキットだ。20"のライド、18"のクラッシュ、二つのタム、バスドラム、スネア、それにフロアタムだな。それで十分だ。たくさんドラムを並べたらショウで見映えするのはわかってるが、全部を一度に叩くことはできないだろ?なあ?ブルースをプレイするときに限らずな。俺はこのLudwigのセットを1961年の2月11日に手に入れた。昨日のことのように覚えているよ。今でも1961年と同じようによく鳴るんだぜ。おれはスネアをきっちりタイトに叩く。なかなか話し甲斐があるな。

現代においてブルース・ドラマーとして暮らしを立てるのは難しいのでしょうか?

 ブルースだけでか?そりゃあ、昔のシカゴとは違うからな。ただうまいだけじゃ飯は食えないだろうね。俺がブルースに関係するすべての音楽を学んだ理由はそこだ。おれはファンクをやるのも好きだし、幅広いドラマーだと思われていたい。ブルース・ドラマーです、なんて言ったら、「おいおい、こいつはブルースしかできないみたいだぜ」と言われちまう。そうじゃないんだけどな。ブルースはたくさんの音楽形式の基礎になってるんだよ。ブルースをプレイできるなら、ファンク、ロックンロール、ブギー、ディスコ、ジャズ…の基本も手にしたことになるんだ。でもブルース・ドラマーとだけ呼ばれているんじゃ、せっかくのキャリアは台無しになるね。

あなたのベストな仕事の中で、とくに代表できるようなアルバムはありますか?

 難しい質問だな。Johnny Winterのアルバムでやったのも好きだし。だが、俺が一番の誇りにしてるのはLonnie Brooksの"Bayou Lightning"での仕事だ。Otis Rushの名前も挙げなきゃならない。俺が良いブルースドラマーになるのを助けてくれた。若い俺と一緒にやったとき、どうやったらいいのか見せてくれたからな。意味わかるかね。彼は一曲をとても長くやったんだ。その間すべてを正しくプレイし続けるのは大変だったけど、最終的にはできるようになった。そしたら何も問題なかったね。

あなたは長い時をシカゴ・ブルース・ドラマーとして過ごしています。これまで踏破してきた道のりをふまえて、さらなる野心はありますか?

 ああ。おれはブルースをプレイしたいんだ。ブルースを生きたいわけじゃない。わかるかい?しっかり金を稼いで、あくせくせず快適に暮らしたい。レコードをでかくヒットさせたいね。3人の子どもにベストな人生を与えたいのさ。

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