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1月, 2022の投稿を表示しています

訳詞:Sweet Little Angel(B.B.King版)

おれにはやさしくて可愛い天使がいる あの子が翼を広げるさまが好きさ おれにはやさしくて可愛い天使がいる あの子が翼を広げるさまが好きさ 彼女が俺の周りに翼をまわすとき おれは喜びとすべてを手に入れるんだ あの子に5セントくれと言ったら 彼女は20ドル札を渡してきた 神様!あの子に5セントくれと言えば 彼女は20ドル札を渡してくれるんだ ちょっと酒を買ってきてくれないかといえば ウィスキーをスティルで持ってきてくれた ああ、あの子がいなくなったら おれは死んじまうだろう 神様、あの子が出ていったら おれはとても生きていかれない もし出ていくんだったら、エンジェル どうかわけを聞かせてくれ

訳詞:It Hurts Me Too(Elmore James版)

言ってたね、あれはつらかったって ほとんど気が狂いそうだって あんたは好きな男に いつも傷つけられてる でも、君が傷つくようなとき うまくいってないとき なんだか俺も悲しくなるんだ そんな男嫌っちまえばいいのに ますます好きになるばかり どうして奴についていっては 割を食うようなことをやってるんだ? でも、君が傷つくようなとき うまくいってないとき なんだか俺も悲しくなるんだ あいつは他の女を愛してるんだ 俺はあんたが好きなのに! でも、あんたはあいつが好きで いつも糊みたいにくっついてる でも、君が傷ついてるとき うまくいってないとき なんだか俺も傷つくんだ (Solo) あいつもきっぱり去っていけばいいんだ それか、あんたが落ち込ませてやりゃいい もう、俺は耐えられない あんたが振り回されるのを見てるのに でも、君が傷ついてることが うまくいってないことが 俺をもいたく傷つけるんだ

訳詞:Dust My Broom(Elmore James版)

朝早くに起きて 俺はここを出ていく 朝早くに起きたら 俺はここを出ていくだろう 一番愛する女を捨てていくんだ この部屋は友達にでもくれてやるさ 手紙を書こう 全部の知ってる町に電話するつもり 手紙も書くし 知ってる町全部に電話するさ あいつがミシシッピにもいないなら おおかたウェスト・メンフィスにでもいるだろう あんな女はいらないぜ 都会の男みんなに色目を使うような女はな 俺は、あんな女はいらない 都会の男みんなに色目を使うような女は なあ、あれは性悪の女だろ あんなのを表に出しちゃいけないぜ わかっているけど 俺に残された時間は長くない 俺にはわかってる 残された時間は長くない あいつを置いて出ていくのはやめよう 幸せな家を壊すのも

翻訳:James Brown Taught Bootsy Collins To Play On The One(2010)

James Brownに「出来てない」とか、「お前は弾きすぎだ」とか言われてたことを覚えてるよ。 でも弾きすぎてたわけじゃないんだよ。ただ、Oneをプレイしてなかったんだ。 Oneをプレイしてないなんて俺自身は気づいてなかったんだけどな。バッチリだと思ってたぜ。(笑) でもJBは、「ああ、もう、お前な…ダメだ。」(マネしながら)俺はどこに行ったって、みんなに「お前、やべーよ!」って言われてたのにだぜ。 その当時のベースっていうのはこういう感じだったからな。(実演:3:35~。2・4の指パッチンをちゃんと聴いておきたい) なんてことないだろ?だから俺はいろいろほかのこともプレイしてたんだよ。 でもJBは「ああ~!!全く!! Give me the one!! oneをよこせ!oneを寄越せばほかに何やってもいいから!!」というんだ。 それで俺はわかりはじめたよ。「ああ。oneがあればほかのことやってもgreatになるのか。」 「そうだよ。oneを寄越せ。そうしたら全部良くなる。」 それで(oneを使ったプレイを)始めたわけだけど、それがきっかけだったんだ。James Brownこそが、最初に俺に「Son,you need to give me the one.」と言った人だったんだ。 彼が自分の言っていることをわかってたとは思ってないがね。意味は分かってても、そのパワーまでは知らなかったと思う。 oneは俺の人生まで変えちまったよ。oneがわかって、始まったんだ。それからParliamentやFunkadelicにもoneを持ち込んだよ。ファンクっていうのはoneなんだよ。 Source:  https://youtu.be/1WWDWdo0E4Y

翻訳:John Primer - "Blues Ain’t Nothin’ But the Mind"

CheckerboardでStonesとMuddyと共演したときについて最も印象に残っていることは何ですか?警察がファンをクラブに近づけないようバリケードを張っていたことが思い出されますが。  何が起こっているのかよくわからなかったけど噂になってたな。Rick Kreher(ギタリスト)が、Stonesが登場するかも、みたいなことは言っていたけど。Mojo Buford(ハープ・プレイヤー)に、あいつらが街に来てる時はだいたい出てくるかもって噂されるけど、本当に出てきたことはない、ってな。でも、あいつらはLefty Dizzを観たがってたんだ。Lefty Dizz狂いだからな。 そういったうわさが流れていたわけですが、本当に現れましたね。驚いたことと思います。どう思いましたか?  連中が入ってくるのを見たとたん、Oh, man.何が起きてんだ?と思ったよ。まったくパーティみたいになってたね。 あなたたちのようなSouth Sidersとは違った格好をしていましたね。取り巻きに囲まれ、ロック・スター然として。  俺たちはバンドで演奏しながらMuddyをステージに上げたんだ。それからthe Rolling Stonesも上がってきたよ。連中は真ん中で座り込んでバーボンとウイスキーを飲んでたね。 ええ、ステージで飲むことは知られていますよね!そのCheckerboardでの共演はDVDドキュメンタリーにもなっていますね。  ああ。俺も持ってるよ。greatなフィルムだね。 Stonesのシカゴ・ブルース・トリビュート、『Blue And Lonesome』についてはどう思いますか?聴いたことはありますか?  ああ、CDを持ってるよ。Stonesだぜ、man!連中は自分のやり方でやっているんだ。greatなやり方でね。いいCDだよ。彼らのやり方は好きだ。あれ以上はないね。俺が同じことをやるとしたら、同じようにやるだろうね。トラディショナル・ブルースで、連中はやり方を知ってるんだ。 MickとKeithはMuddyのアルバムを通して意気投合し、Muddy Watersの曲からバンドの名前をとりました。彼らはブルースバンドとして始まったのですよね。  そうかい?あれは、The Rolling Stonesだぜ!彼らは素晴らしいよ! MickとKeithは『Chicago Pla...

翻訳:Fred Below インタビュー

プロのドラマーとして活動し始めた時の背景を教えてください。  40年代の初めごろ、DuSable高校に通っていた時、Johnny GriffinやEugene Wright(のち、The Dave Brubeck Quartet)とよく演っていたんだ。 同じ学校に通っていたからね。その時はトロンボーンを始めたのだけど、あまり向いていなかったからドラムに転向したんだ。  私の若いころ―というかもっと小さいころ、まさしく音楽に囲まれて育ったよ。30年代の初めごろは、子どもながらにVendomeやRegal TheaterやMetropolitanみたいなところに通っては、最高の黒人ビッグバンドを観たものだった。彼らはよくシカゴに来ていたからね。 高校に入るときに、Chick WebbとGene Krupaを観てドラムにすごく興味を持ったんだ。Cab Calloway と Billy Eckstineのバンドも観に行った。彼らは本当に俺を目覚めさせたね。 ドラムはArt Blakeyでしたよね?  そう。Art Blakey。まったくEckstineは凄い奴らを大勢抱えていた。彼らを聴いているとやろうという気持ちになったし、さらに興味も沸いていった。 俺は幸運にもそれぞれのメンバーを観て聴くことができたものだけど、なかなか今どきあんなバンドは見れるもんじゃないよね。Regalなんかに行っては、2、3回分のショウをぶっ続けで観たりしたよ。  今でも思い出すけど、私が卒業する直前にBilly Eckstineを見に行った時、彼は自分のビッグバンドを解散してソロになる直前だったんだ。 それはシカゴ公演最終日だったから、DuSable、PhilipsやEngwood高校の生徒が劇場に詰めかけていた。Billy Eckstineがステージに上ったとき、彼らは演奏を止めた。照明がついてみると、劇場は子供で満杯だったよ。子供を追い出すために3校の教師まで来ていたくらいでね。なかなかとんでもないことだったね!ビバップ前夜の話さ。(この段落自信なし) Chick Webbを観たときあなたは何歳だったのでしょうか?  10歳は超えていなかったね。 観て、感銘は受けたのでしょうか?  うーん、まだ音楽をやることに興味は持たなかったと思うけど、好きだったね。やっぱりBilly Eckstineに...

翻訳:Brewer Phillips at Okno Krog 1993

あなたの人生、キャリアについて聞かせてください。あなたはミシシッピの生まれですね?  ああ。ミシシッピのBlackhawkだ。(笑)マジで小さい町でな。 (聞き取れない) どのくらいの間住んでいたのでしょうか。つまり、シカゴに移り住む前は。  俺が生まれたのが…(咳払い)失礼。俺は49年にメンフィスに来た。それで3年くらいMemphis Minnieと住んでいた。あいつが俺にギターを教えてくれたんだ。 Memphis Minnieですか!それまでに他のブルースマンとやっていたことはあるのでしょうか。  ミシシッピのデルタでバンドをやっていたんだ。小さいクラブで演ったり…この部屋よりゃデカかったけどな(笑)(聞き取れない)でも全く金がなくてな。 それでは、ミシシッピでは有名なミュージシャンと共演することはなかったのでしょうか。  ない、無いな。メンフィスですらなかったよ。Howlin' Wolfもミシシッピのデルタの出身だけど、近所じゃなかったしな。(聞き取れない)ギターも何も持ってなかったし…だからMemphis Minnieのギターを借りてアーカンソーのウェスト・メンフィスの小さいクラブで演奏したりしてたんだ。「Hitmen」って小さいバンドをやっててな。それと「Cotton Pickers」。「Hitmen」と「Cotton Pickers」でプレイしたんだ。ッハ(笑)ウェスト・メンフィスあたりでな。 それから56年にシカゴに来た。 56年。  ああ、(聞き取れない) Hound Dogとはいつからプレイしているのでしょうか。  57年だよ。ドラマーのLevi Warrenとな。それでギグして回っていたが…59年頃にTed Harveyと出会った。それから俺たちはHound Dogが死ぬまで一緒に住んでいた(正確に聞き取れない)んだ。あいつは76年に死んだ…いや!75年だな。悪い。75年だ。 Aligatorと契約する前はレコードを作ったことはあったのでしょうか。  ああ、Hound Dogと俺とLeviで「Cadillac Baby」ってやつを作った。それと「Take Five」だな。「Cadillac Baby」より先に出したんだ。ミシシッピ・シカゴの57番通りでレコードを出した。ヘッへへへ(笑)(聞き取れない)No money、no moneyだ。...