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翻訳:Clifton James インタビュー

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おれはいろんなやつと仕事をした。Wolf、Muddy Waters、Jimmy Reed,Jr.……まあ、知ってるだろ。 Bo Diddleyのドラマーだったんですよね? ああ。俺はあいつのオリジナル・ドラマーだよ。一緒に始めたんだ。あいつにあのビートをやったのはおれさ。 Willie Dixonがそうだといっていました。どのようにあのビートを作ったのですか? わからん。ただ降ってきたのさ。俺があいつとやり出す前、俺は家でなんかを叩いてたんだ。それだけでね。Boに会って、俺たちはシカゴのクラブなんかでやりだすようになった。あちこちで、ちょっともらえるか、なにももらえないかぐらいだったが。実際問題、あんなのはないようなもんだったよ!はした金だった。 Willie Dixonが、あなたはメロディックなサウンドを得るために、チューニングにこだわると言っていました。 そうだね。 ハイハットは使わないと聞きましたが? そうだ。たまには使うけどね。 しかし、そのころあのタム・タムのスタイルは他にいなかったと思います。あなたのアイデアですか? うん、「Bo Diddley」とか「Pretty Thing」なんかは典型的だが、相当たくさんの曲であれをやったね。あとから、Dee Clarkの「Hey,Little Girl in the High School Sweater」でもやった。 Howlin’Wolfの「Killing Floor」もあなたですよね? ああ。Sonny Boy Williamsonともたくさんやったよ。McKinley Mitchell、L.C. McKinley、Buddy Guyに、Little Walterともな。 Frank KirklandがBo Diddleyのほとんどのレコードのクレジットで入っています。彼の役割は? ツアー用のドラマーだったのではないのですか? いや。俺が最初だ。それからやめた。Boのもとを去ったのはうまくいってなかったからだ。それでもあいつは俺をいつも呼び戻そうとしてたけどな。でもうまくいかなかった。 しかし、あれはFrank Kirklandのビートではないのですね? 違うよ。 あなたに影響を与えたドラマーは誰ですか? そのころにかい?ええと、Max Roach,Gene Krupa,それにCozy Cole。 彼らがあ...

翻訳:Morris Jennings インタビュー

Morris Jenningsは”シカゴのBernard Purdie”として知られる。「おれはプレイして、さらにプレイして、たくさんのギグをやった。でもドラム・キットの後ろやなんかに看板なんかを下げたことはないね。」とJenningsはいう。「俺はドラムをプレイしてきただけで、それだけさ。」 ある意味で、Jenningsはブルースから遠く離れ、音楽の他の枝ーたとえばジャズ、ファンク、R&B、ロック、メインストリームのポップさえーと接続することに成功したシカゴ・ブルース・ドラマーの、代表的存在といえるかもしれない。彼はシカゴのCMジングル業界でも認められている。Jenningsのこの多彩さの一部は、ジャズや、彼のいうところの「クラシック」の教育を受けていること、に拠るところもあるだろう。そして、多様性に対しての憧れを育んだことにも。しかし、そもそもそれは、ドラマーとして生きるために、シカゴでライブやレコーディングの仕事をこなしていくために必要なことだったのだ。 シカゴのような、ブルースに囲まれた街で育つというのはどんなことでしたか?  音楽がそこら中にあったのは間違いない。全ては素晴らしかった。Bo Diddleyは1ブロック隣に住んでいたし、Muddy Watersもそんなに遠くなかった。大きな通りには必ずブルース・ジョイントがあった。俺が小さい頃はね、わかるかな。夜中に家を抜け出して、ブルース・ジョイントの外で聴いてるなんてことはよくあったんだ。英才教育がそこにあったってわけだね。それが博士号みたいなもんで。俺はいまだにその時の経験から引き出すものがあるよ。  でも当時のシカゴで最大、最高のものはー少なくともミュージシャンにとってはだがーDuSable高校に行って、"Captain" Walter Dyett先生に学ぶことだった。あの人は全員に教えたからね。Wilbur Campbellから、J J. Johnson、Nat King Cole、Sarah Vaughanまで。DuSable高校の卒業生のその多くが、大スターになったりいいミュージシャンになった。教育はストリートにもあったし、学校にもあったってことだ。もしそれを生かしたいと思うならね。  今では俺が受けたような「ブルース教育」は、若いやつは受けられなくなってしまった。今...

翻訳:Jimmy Tillman インタビュー

Jimmy Tillmanはブルースとそのドラミングに対して、非常に強い歴史感覚をもってアプローチする。文化遺産としてのブルースについての知識をこれほどまでに備え、保存に対しての意識の高いドラマーは他に会うことはなかった。自身が尊敬を集めうるドラマーであると同時に、彼は教師であり、作曲家でもあり、指導者であり、脚本家であり、ライターでもある。彼は演劇作品、"Muddy Waters:The Hoochie Coochie Man"の制作を牽引していた。それに"The Art Of Blues Drumming"という冊子を執筆した。ブルースを知らないドラマーにむけた素晴らしい教則本だ。 熱心に、そして明瞭に、彼はブルースを出版あるいは口伝えに人に教えている。 私がChicagoにいる間、彼は"Muddy Waters"の公演に招待してくれたが、Chicago Blues Festivalの間だったので行くことはかなわなかった。したがって彼は、ショウの始まりについて、またMuddy本人との特別な関わりについて説明してくれた。それは以下に記す通りである。 "Muddy Waters:The Hoochie Coochie Man"はどのようにして始まったのか教えてください。  この劇は1982年のMuddyにインスパイアされているんだ。私はそのときChicago Blues All-Starsと仕事をしていて、Muddyともツアーしていた。彼が、誰も自分の人生について本に書いたり、形にしたことがないという話を出したことがあった。  私はシカゴに住んでいるブルース・アーティストとして、シカゴ小学校で子供たちにブルースの歴史を教えていることを話して、自分にできることはないか、と聞いてみたんだ。彼はぜひにと、そうしてくれたら本当に感謝すると言ってくれたよ。シカゴからブルース・ミュージシャンとして成り上がることはどういうことだったか、彼がどういう苦難に直面したのか、を若い世代に知って欲しいと、彼は強く思っていた。  それでこのツアーの間、二人で座っては、Muddyが自分の物語を話し始めるようになったんだ。演劇にしている情報の多くは彼本人か、Willie Dixonに聞いたものだ。それから程なくして、...

翻訳: Casey Jones インタビュー

Casey Jonesは1956年に、Little Richardを夢見てシカゴにやってきた。Little Richardこそが彼の関心事だった。しかしJonesはすぐシカゴ・スタイルのブルースに腰を据えることになった。「何ブルースでもよかった。とにかくものにしたかっただけさ」と彼は回想する。  今日、Jonesはシカゴで一番多忙なブルース・ドラマーだ。Johnny Winterと録った2枚のアルバム―"Guitar Slinger"と"Serious Business"(いずれもAligator Recordsから)は、彼のクールで正確なバックビートを聴ける好例といえる。彼はできるときはいつでも自分のバンドでプレイするし、"Airwax Records"という小さな独立レーベルも運営している。さらに、自作の曲をいくつか録音することも計画している。  Jonesと話したとき、彼はWinterとの仕事を終えたばかりだった。Jonesは活力にあふれ、プライドを持てるミュージシャンだ。機会が与えられれば一日で三つのセッションだってこなすだろう。それも毎日。「仕事がしたいんだよ」というときの彼の笑顔は、James Brownのそれを思い起こさせた―"I'm ready, able, and willin'"というわけだ。 50年代中ごろにシカゴに移住したのはどういった理由からでしょうか?  ああ、俺の義理の兄貴が、シカゴでOtis Luke & The Rhythm Bumsってバンドをやっていたんだ。ドラマーが足りないというんで、ある日俺が呼ばれたんだが、ドラム・セットについては何も知らなかったんだよな。マーチング・ドラムしかやったことがなかったから。だけどシカゴに来てトライしてみたよ。ギグを通してな。わかるだろ。そうしているうち、グルーヴにハマってしまった。  ほとんど問題なかったがハイ・ハットだけはだめでね。あれをちゃんと使うのにはずいぶん苦労したよ。そもそもハイ・ハットを持ってすらいなかったからな。バスドラム、スネア、シンバル。これだけだ。  その頃は1週間に7晩、それぞれ違うブルース・バンドを聴きに行けたものだ。この街じゅうが活気にあふれてた。最近じゃそんなにた...

翻訳:Odie Payne,Jr. インタビュー

Odie Payne,Jr.は遅めのペースで、疲れた様子で話す。背中が痛み出すと、さらにゆっくりと言葉をつなぐようになる。私がインタビューしたのは、彼がPee Wee Crayton、Eddie "Cleanhead" Vinson,Lowell Fulsom,Margie Evansなどのバックをこなした演奏の翌朝である。  ふつうの健康なドラマーであっても相当な激務にちがいないギグだが、背中の痛みを抱えてなお、彼には喜びのようだった。60歳の彼だが、仕事を断ることはほとんどない。「演奏している間は痛くないんだよ。来るのは後からだ。」と、少し笑いながらいう。「あんなCatsと演奏できることは長いことなかったんだ。俺が憧れてきた人たちだ。そんなチャンスをフイにできるか?no sir.」  さて本日、Payneは楽に歩いたり話したりしていた。背中の痛みで今日のリハーサルを逃すことがないように体力を温存しながら。彼にとっては、演奏できないことの方が背中の痛みよりも辛いのだろう。 あなたのシカゴ・ブルース・ドラマーとしてのキャリアの開始は、1940年代後期にもさかのぼります。これはジャンルや場所を問わずとても長いですね。  ああ。そうだろうな。俺が最初にナイトクラブで演奏したのは1949年のことだから。その時はTampa Redと一緒だった。 それではあなたがドラムの演奏を始めた頃の話を伺いたいと思います。  Dusable高校でのことだ。あれはドラマーには素晴らしい学校だった。いや、全てのミュージシャンにとってというべきか。何の楽器をやっていようとだ。最高の先生もいた。Walter Dyett先生※1はとても情熱的で、 彼の陰口をいう人なんか一人もいなかった。とても尊敬されていたよ。彼が集会場に現れると即座に皆静まり返ったものだ。彼は時として苛烈で、人を見つめるだけで泣かせられるくらいだったがいい先生だった。皆に尊敬されて、評価されていたんだ。 プロのドラマーになりたいと思ったのはその頃のことでしたか?  実際はもっと前だ。さらに昔、俺は学校の机を指で叩いてドラムの基礎を覚えた。空の机っていうのは指で叩くとなかなかいい音で鳴るんだぜ。先生が教室を出たらいつでも演奏開始だ。そしたらすぐ、クラス中がジャンプし出す。それで毎回先生が戻って来て俺を捕まえるん...

翻訳:Fred Below インタビュー

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プロのドラマーとして活動し始めた時の背景を教えてください。  40年代の初めごろ、DuSable高校に通っていた時、Johnny GriffinやEugene Wright(のち、The Dave Brubeck Quartet)とよく演っていたんだ。 同じ学校に通っていたからね。その時はトロンボーンを始めたのだけど、あまり向いていなかったからドラムに転向したんだ。  私の若いころ―というかもっと小さいころ、まさしく音楽に囲まれて育ったよ。30年代の初めごろは、子どもながらにVendomeやRegal TheaterやMetropolitanみたいなところに通っては、最高の黒人ビッグバンドを観たものだった。彼らはよくシカゴに来ていたからね。 高校に入るときに、Chick WebbとGene Krupaを観てドラムにすごく興味を持ったんだ。Cab Calloway と Billy Eckstineのバンドも観に行った。彼らは本当に俺を目覚めさせたね。 ドラムはArt Blakeyでしたよね?  そう。Art Blakey。まったくEckstineは凄い奴らを大勢抱えていた。彼らを聴いているとやろうという気持ちになったし、さらに興味も沸いていった。 俺は幸運にもそれぞれのメンバーを観て聴くことができたものだけど、なかなか今どきあんなバンドは見れるもんじゃないよね。Regalなんかに行っては、2、3回分のショウをぶっ続けで観たりしたよ。  今でも思い出すけど、私が卒業する直前にBilly Eckstineを見に行った時、彼は自分のビッグバンドを解散してソロになる直前だったんだ。 それはシカゴ公演最終日だったから、DuSable、PhilipsやEngwood高校の生徒が劇場に詰めかけていた。Billy Eckstineがステージに上ったとき、彼らは演奏を止めた。照明がついてみると、劇場は子供で満杯だったよ。子供を追い出すために3校の教師まで来ていたくらいでね。なかなかとんでもないことだったね!ビバップ前夜の話さ。(この段落自信なし) Chick Webbを観たときあなたは何歳だったのでしょうか?  10歳は超えていなかったね。 観て、感銘は受けたのでしょうか?  うーん、まだ音楽をやることに興味は持たなかったと思うけど、好きだったね。やっぱりBilly Eckstineに...