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3月, 2025の投稿を表示しています

John Lee Hooker Interview

 John Lee Hookerインタビュー ーーあなたは反抗的な子供でしたか?  いや。おれはずっとクリスチャンだ。日曜の学校でそうやって育てられたからな。信じないかもしれんが俺は生まれてこのかた喧嘩をしたことがないし、トラブルに巻き込まれたこともない。暴力沙汰にもね。けして。戦いのことを信じてないんだよ。俺はloverで、fighterじゃないんだ。良くない奴がいたら縁を切るだけ。なるべくトラブルからは離れて生きてるんだよ。巻き込もうとしてくる奴らもいたけど、そうはさせなかったよ。俺は聖人君子だったことはないけど、ずっといい人間なんだ。人をたくさん助けるしな。 ーー他人のソロを一音一音練習するようなことはありましたか?  たまにはな。そんなにはやらない。俺は自分のスタイルが好きなんだ。いつも独学でやってきた。俺は他人をコピーするような人間じゃないんだ。俺はJohn Lee Hookerでありたい。 ーーエレキギターを弾く人を初めて見たのはいつか覚えていますか?  うーん。T-Bone Walkerだな。あの人は俺の憧れだった。彼が俺の最初のエレキギターをくれたんだ。エピフォンだった。 ーー彼のすごいところは何でしょう?  彼はすごくうまかったんだ。独特のスタイルでエレキギターを弾いてね。いい人だったよ。どこへ行くにも好んで俺を連れて行ってくれた。俺のことを「The Kid」って呼んでたね。デトロイトでのことさ。 Jas Obrecht Interview

Ike Turner Interview(未完)

俺が始めたころはな、あー、B.B.はわかるだろう。あいつが教えてくれたんだ。B.B.King。一緒に育ってきたからね。それからあいつは家を飛び出してメンフィスに行った。あとでそっちに行ったときに再会したよ。ミシシッピのチャンバーズでプレイしてたところでね。それからやつがSun Studioに紹介してくれたんだ。 ――あなたが共に育った音楽について少し聞かせてください。ミシシッピのクラークスデイルにいたころ、どんなものを聴いていたのですか? Sonny Boy Williams(ママ)と、あー…… ――子供のころに聴いていた音楽について、改めて伺ってもいいですか?  ガキの頃に聴いてたのは、Sonny Boy Williamsと、Pinetop Perkinsだ。彼のプレイに一番影響を受けたね。彼がピアノを弾くのを窓越しに見たもんだ。人間の指があんなに速く動くなんて信じられなかった。そういうわけで、おれはピアノに興味を持った。そしてついに、Pinetopが窓越しに俺を見つけて、入れてくれたんだ。でも、ガキが遠慮して、ドアから入るんだか入らないんだか、ってうろうろしてる感じってあるだろ。それで最終的に、Pinetopが左手はどう弾いてるかってのを見せてくれたんだ。まったく俺は彼のピアノにほれ込んでたからね。まあ、とにかく、そうやって見せてくれるようになったわけだ。  それから、あー、何週間かあと、あー、たしかそのころ、PinetopとSonny Boy Williamsonはアーカンソーのヘレナで番組を持ってたと思うんだけど。局の周波数は忘れちまったが……とにかく、おれたちはそのころRobert Nighthawkに会ったんだ。あー、彼もSonny Boy Williamsみたいに大会に出てたからね。ま、とにかく、Robert Nighthawk、はクラークスデイルのWROXラジオ局で番組を持ってたから、おれたちはアンプとギターを運んだりするのを手伝ってたんだ。音楽を近くで聞くだけのためにさ。わかるだろ。それで、あー、おれが音楽に本当に関心を持ったのはこういういきさつだ。 ――そのことのラジオについてすこし聞かせてください。五〇年代はじめ、あなたがWROXで番組を持っていたころ、白人の局と黒人の局はそれぞれ何を流していたんですか? はっきり分かれていましたか?  分かれ...

Brewer Phillips Interview(断片)

 前にBrewer Phillipsの8ページくらいのインタビューを読んだ時の覚書。 Brewerの父は郡の高官のもとで働いていて、その高官は労働者の黒人が食べるに充分なくらいの給料は与えていたらしい。「みんな貧乏でなにもない黒人って話をするけど、俺の話わかるか?」 Brewerの父は一時期はかなり稼いでいて、自分の車やラバを持っていたくらいだった。しかしフーヴァーが大統領になって、どんどん貧しくなり、土地も車もなくなって一頭の牛しかいなくなってしまう。 Brewerは1924年11月16日に生まれる。12人兄弟の末っ子として生まれた彼の面倒は(母がそのころできなくなっていたので)一番上の姉が見た。 Brewerの祖父、Aleck Griffinは1850年代生まれで、まさに奴隷売買を経験した世代。彼はなんと90歳まで生きて、Brewerにその時の話をよくした。 父方の祖父、Everett Phillipsはプエルトリコ人。Brewerには1/4プエルトリカンの血が流れている。 彼に最初に音楽を伝えたのは母親で、よく歌っていた。その後ろでBrewerも壁に針金を張ってdiddley-bowを演奏?して遊んでいた。 Brewerの従兄弟の奥さんは同性愛者で、彼の見るところお金が欲しくてその従兄弟と結婚した。(従兄弟は軍にいて、お金を送っていた)彼女からBrewerの姉にギターが贈られた。それがおそらくBrewerが触れた最初のギター。といっても彼の家にはラジオも電気もない(彼の父は家族に自分の育ったような環境で暮らすように強いていたので)ため、どうやって弾くのかまったくわからなかった。 とはいえBrewerは2ヶ月くらいでギターを弾けるようになり、母親の歌ならなんでも合わせられるようになる。曲目はよく知らないけど、ブルースというよりはゴスペルの曲かしらん。Brewerの母は9年間教育を受けていたので、歌えたし、一曲自分で作ってすらいた。ブルースも歌っていたみたい?あと、チャールストンなんかのダンスも教えてくれたらしい。Brewerの最初の先生は母親だったわけだ。 じきに姉たちとBrewerは一緒に歌うようになる。父はみんなに歌わせるのが好きだったがなぜかギターを弾かせてくれなかった。母が説得して弾かせてくれるようになる。父親が唯一ギターを弾けというのは、客が来...

Dave Myers Interview(未完)

おれはミシシッピのバイハリア(Byhalia)の生まれだ。(1926年10月30日)おやじのAmosはギタープレイヤーだった。おふくろのMaryもちょっとはやったけど、うちの周りで演奏したくらいだったね。おやじはそのへんの家のパーティなんかに行っては演奏してた。そういうのを当時「フロリック(どんちゃん騒ぎ)」といったんだ。  おやじはオールドなツー・ステップ・タイプの音楽をやっていた。そういう音楽のことを「ロンプ」と呼んでいたよ。おやじはBlind Lemon Jeffersonとか、Big Bill Broonzyとか、Lonnie Johnsonみたいな感じでプレイしていた。ヴェスタポル(オープンD系)チューニングにしてね。おれたちはいつもおやじが演奏するのをすわって熱心に見ていたんだ。でもギターは持ってなかった。そうでなきゃおやじと一緒にできたのに。でも持ってないもんだから、おやじのやるのをひたすら見て、ギターが置かれたらおれたちがつかみにいくって調子だった。ギターで遊んでるとよくケツを叩かれたもんで、もしそのたびに金が降ってきてたら今頃演奏の心配することもねえだろうな。(笑)  弟とおれはいつも教会で歌ってたんだ。バプティスト教会で何人かと。大合唱団って風情ではなかったね。あんまりそれで影響を受けたとは言えないね。でも、その辺にはちょっとはプレイできる奴らがいて、The Sesserly Brothersなんかはシカゴのストリートでやってるような音楽もやれた。まあ、でも、ガキがうろついてるだけみたいな感じだったね。おれはカントリーをいつも聞いてたんだ。土曜の夜にね。The Grand Ole Opryって局にはBill Monroe、Roy Acuff、Eddy Arnold,Grandpa Jones、Minnie Pearlみたいな連中がたくさんいたんだ。なにぶんラジオしかなかったから、そういうのにインスピレーションを受けるしかなかったわけだな。おれはスウィングもそれはよく聴いてたけど、それがメインって感じじゃなかった。俺はほとんどいつも、おやじが演奏するのを聴いてたんだ。  俺たちは1942年にシカゴに来た。おやじが白人に追い出されたからな。地元にはおやじのおやじから継いだちっちゃい土地があって、それでまあなんとかやってたんだけど、あのトラクターっての...

Phil Guy-"It's A Feeling"

https://youtu.be/5CbukRgbszA?si=noPxATEFbwqhOTk2  …腰まげて綿を摘まなきゃならない。膝をついて摘むやつもいたけど。おやじにはよく怒られたよ、日に百ポンドの綿を摘めなかったからね。やろうとはしたけどできなかったんだよ。向いてないからほかのことをやろうと思ったんだ、小作人(シェアクロッパー)になるつもりもなかったし。で、ギターにはまっていったんだ。  (Ain't That Loving You/Jimmy Reed)  …俺がギターを始めたのはLouisianaのLexwoodにいたころだね。小さい田舎町だ。おれといとこでよくLevy(?)に飛び入りさせてもらった。あいつは当時はハーモニカを吹いてたけど今はギターだ。当時はエレクトリックギターを持ってなかったから欲しくてね、このピックアップが付いたやつが。で執着してたわけだ、アンプにつなぐとすごくいい音がして……これまで聴いた中で一番いい音がね。まあなにしろそれしか聞いたことがなかったから。それから初めてのグループに入って……〇〇の。あいつはハーモニカ吹きでひとつは口で、もうひとつを鼻で吹くんだ。ほんとだぜ(笑)それで夕方の四時とか四時半になると俺たちはこんな感じのを演奏してたんだ。  ……Yeah,今夜はBig Papaがこの町に来たぜ、これから俺たちはRockhouseをロックするぜ。…これはよくやってたクラブの名前だよ。毎週金曜土曜日曜にね。野球の試合の後はみんなで集まるのさ。騒いで、ブギーしてね。Hound Dogもこんな感じでやってたもんだよ。…ハハハ、こんな感じで楽しくやってたんだ。ギターを覚えながら、いとこと一緒にやったり、ときどきは坐って、何がどう変化していくかとかを見て…おやじにもBuddyとおれがやるところを観てほしかったけどね。おやじが俺たちの演奏を観ることはなかったんだ。    ……これは夜通し出歩いても明日食べるものも手に入らなかったようなときの歌さ。  (Garbage Man Blues/Phil Guy)  ひとは勘違いしてることがあるね。ブルースは誰かが誰かの嫁さんを撃ったりするようなもんだと思ってるやつがいるけどそんなんじゃないんだよな。それは違ってて、それは昔から語り継がれてきたストーリーなんだよ。そんな風な問題にぶつかった...

Billy Boy Arnold-"Harmonica Masterclass"

https://youtu.be/BzTCEbI0amI?si=cwT_V2jPu4FlSJIG  俺の名前はBilly Boy Arnold……つまりブルースしか歌わない、って意味だ。これからブルースハーモニカについて話そうと思う。はじまりから今日に至るまでの歴史をね。  ブルースのはじまりにおいて使われた楽器っていうのはふたつしかなかった。一番にピアノ。そしてギターがやってきた。その時はエレクトリックじゃなくてアコースティックギターだ。ギター弾きもハウス・パーティにやってきては演奏するようになった。そう、その頃のブルースには二つの中心的な楽器があって、ピアノが一番、ギターが二番だった。  ハーモニカが目立つようになるのは一九三七年のこと……John Lee Williamson、Sonny Boy Williamson、つまりオリジナル・Sonny Boyが"Good Morning Little Schoolgirl"をRCAのBluebirdレーベルで録音したときだ。これが、ハーモニカが歴史を作った地点だね。  "Good Morning Little Schoolgirl"はスマッシュ・ヒットだった。アメリカ中でうけたんだ。じっさい、Big Joe Williamsが言うにはSonny Boyは当時のブルース・シンガーの全員の録音に参加してたって話だ。"Good Morning Little Schoolgirl"を作った時に、彼はその頃の全員を超えちゃったんだな。  "Good Morning Little Schoolgirl"がどれだけ人気だったかっていうと、Muddy Watersもハーモニカをやろうとしたし、Jimmy Rogersも、Eddie Boydもハーモニカを吹こうとしたんだ。そのくらい彼は特別でオリジナルだったから、みんなそれに乗っかろうとしたんだ。これが当時起きたことだよ。  そしてほかにも、二人の素晴らしいハーモニカ・プレイヤーがいた。当時はレコードには登場しなかった人たちだ。一人はRice Miller……Sonny Boy No.2と、もう一人はBig Walter……Walter Hortonだ。たしかBig Walterがレコードを作ったのは1...