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翻訳:Morris Jennings インタビュー

Morris Jenningsは”シカゴのBernard Purdie”として知られる。「おれはプレイして、さらにプレイして、たくさんのギグをやった。でもドラム・キットの後ろやなんかに看板なんかを下げたことはないね。」とJenningsはいう。「俺はドラムをプレイしてきただけで、それだけさ。」 ある意味で、Jenningsはブルースから遠く離れ、音楽の他の枝ーたとえばジャズ、ファンク、R&B、ロック、メインストリームのポップさえーと接続することに成功したシカゴ・ブルース・ドラマーの、代表的存在といえるかもしれない。彼はシカゴのCMジングル業界でも認められている。Jenningsのこの多彩さの一部は、ジャズや、彼のいうところの「クラシック」の教育を受けていること、に拠るところもあるだろう。そして、多様性に対しての憧れを育んだことにも。しかし、そもそもそれは、ドラマーとして生きるために、シカゴでライブやレコーディングの仕事をこなしていくために必要なことだったのだ。 シカゴのような、ブルースに囲まれた街で育つというのはどんなことでしたか?  音楽がそこら中にあったのは間違いない。全ては素晴らしかった。Bo Diddleyは1ブロック隣に住んでいたし、Muddy Watersもそんなに遠くなかった。大きな通りには必ずブルース・ジョイントがあった。俺が小さい頃はね、わかるかな。夜中に家を抜け出して、ブルース・ジョイントの外で聴いてるなんてことはよくあったんだ。英才教育がそこにあったってわけだね。それが博士号みたいなもんで。俺はいまだにその時の経験から引き出すものがあるよ。  でも当時のシカゴで最大、最高のものはー少なくともミュージシャンにとってはだがーDuSable高校に行って、"Captain" Walter Dyett先生に学ぶことだった。あの人は全員に教えたからね。Wilbur Campbellから、J J. Johnson、Nat King Cole、Sarah Vaughanまで。DuSable高校の卒業生のその多くが、大スターになったりいいミュージシャンになった。教育はストリートにもあったし、学校にもあったってことだ。もしそれを生かしたいと思うならね。  今では俺が受けたような「ブルース教育」は、若いやつは受けられなくなってしまった。今...